戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、
波乱の生涯を送った徳川秀忠とその妻の江(ごう)。
今回はこの二人の仲や年の差婚の経緯、
子どもを含めた家族構成について迫っていきます。
2人の間には多くの子や孫が生まれ、
歴史上に名を残した方も多いんですよ〜。
徳川秀忠と江の子供は何人?名前は?
徳川秀忠と江の間に生まれた子どもは全部で7人です。
長男の家光(いえみつ)は生まれた直後から
乳母である春日局(かすがのつぼね)によって養育されましたが、
気弱な性格であったため、母である江には嫌われていたとする説もありました。
近年の研究では江が家光を粗末に扱った資料はないとされています。
気が強い、と言われた江のイメージが
そのような説を残したのかもしれないですね。
次男の忠長は江によって直接育てられ、
男らしいのびのびとした性格に育ちました。
そこで、秀忠は忠長を跡継ぎにしたいと考えていたようです。
そこで跡目争いも起きたようですが、
長男であるということと一説には家康の介入もあり
家光が後を継ぐことになったそうです。
長女の千姫は、豊臣秀吉の長男である秀頼に嫁ぎました。
ご存知の通り、徳川家と豊臣家は次第に対立し、
大阪夏の陣と大阪冬の陣で戦闘状態になりましたね。
秀頼は自害し、千姫は燃え盛る大阪城の中から徳川方の武将によって助け出されました。
戦国の世に翻弄された姫として、千姫の名を知る方は多いと思います。
次女の珠姫(たまひめ)は加賀藩主の前田利常の妻となり、
三女の勝姫は高田藩主の松平忠直に嫁いでいます。
四女の初姫は小浜藩主の京極忠高に嫁ぎましたが、早死にしています。
五女の和子は、後水尾天皇の中宮となっています。
女子もそれぞれの藩主、天皇へ嫁いだということは
徳川家の基盤を盤石にしたと考えられますね。
さすが武将の娘たち、お役目を立派に果たされたのだなと思いました。
生まれた時代が時代だけあって、
7人のうち生き残った子供たちはそれぞれ、
波乱に満ちた生涯を送ったようです。
征夷大将軍であった徳川秀忠の子どもとはいえ、
その人生は安泰だったわけではなかったんですね。
徳川秀忠と江の孫は誰?現在は?
徳川秀忠と江の孫は全部で25人います。
それぞれの名前を次に挙げます。
まず家光の子どもとしては
・徳川家綱
・徳川綱重
・徳川綱吉
・千代姫
・亀松
・鶴松 です。
このうち家綱は家光の後を継ぎ、江戸幕府第4代将軍となりました。
武力に頼らずに、文治政治を行なった将軍として知られています。
綱重は甲府藩主となりました。
綱吉は5代将軍となり、生類憐みの令を出して民衆を困らせたことで有名になっています。
この綱吉は、家綱に男子が生まれなかったことで
養子として家綱から将軍職を受け継いだようです。
千代姫は尾張藩主である徳川光友の妻になりました。
亀松と鶴松は早死にしています。
ほか千姫の子どもとして勝姫、幸千代もおります。
勝姫は岡山藩主の池田光政の正室となっています。
忠長は先述の通り、若くして兄家光と対立して自害しているため、
子どもはいませんでした。
ほか珠姫の子どもが7人おりました。
このうち前田光高は、加賀藩4代目藩主となっています。
勝姫の子どもは3人おり、このうち長女・亀姫は皇族である高松宮好仁親王に嫁いでいます。
和子の子どもは7人いますが、男子二人はいずれも早死にしています。
秀忠と江の孫の数は多く、子孫は繫栄していると言ってよいでしょう。
早死にした孫を除くと、男子はいずれも将軍や藩主といった要職に就き、
女子は大藩の藩主の妻になり、しっかりと自分の役割を果たしていますね。
さすが、徳川家と織田家の後継、と思わずにはいられません。
徳川秀忠と江の年の差は6歳!?仲は良かった?
徳川秀忠と江の年の差は6歳で、江が年上です。
秀忠は初婚、江は3回目の結婚でした。
江は豊臣秀吉の意向で、はじめ佐治一成(さじかずなり)、
次に豊臣秀勝に嫁いでいます。
秀勝が病死したあと未亡人となり、その後に秀忠と結婚しました。
子どもの数が多いことからも、
二人の仲は良かったと思われます。
江は秀忠より先にこの世を去っていますが、その後、秀忠は新しい妻を迎えていません。
一方、この当時、
高い地位にある男性が複数の女性と関係を持つことは当たり前とされていましたが、
秀忠がお付きの女中に手を付けて子どもが生まれた際は、
江の嫉妬を恐れて母子ともに秘密裏に地方の大名のもとに送って預けています。
それが本当なら、江は今でいうところの
鬼嫁となりそうですね!
その後、預けられた子供は保科(ほしな)家の養子として育てられ、
後の会津藩主、保科正之となります。
江は歴史上有名な姉さん女房として知られていますが、
現代の感覚から考えると、意外と年の差は小さいように思います。
気の強い江のキャラクター性の影響で、
年上女房の代表格としての印象が広まっていったのではないでしょうか?
とはいえ、私には、その気の強さが、
徳川の支配を強固にする要因の一つとも考えられてなりません。
徳川秀忠、江の最後は?二人の死因はなんだったの?
1626年9月15日、秀忠・家光・忠長らが京都にいる間に、
江は江戸城西の丸において、満54歳で亡くなりました。
死因は不明とされています。
一方、徳川秀忠は、1623年、44歳の時に将軍職を嫡男・家光に譲りました。
そして江戸城西の丸に移り、引退後も実権は手放さず、大御所として政治を行いました。
その後、1631年には次男、忠長の領地を取り上げて処罰しますが、
このころから体調を崩し、たびたび胸の痛みを訴えるようになりました。
1632年3月14日、満52歳で亡くなりました。
死因は胃がん、もしくは寄生虫による病だとする説が有力です。
父である徳川家康の死因も胃がんであったため、遺伝的な関連があるとも考えられています。
激動の時代を乗り切り、年の差をものともせずに手を携えて生き延びた徳川秀忠と江。
その姿は、江がやや主導権を握っていたものの、戦国版のおしどり夫婦と言っても過言ではないと思えます。
私は、秀忠と江の波瀾万丈な生涯に圧倒されました。
読んでくださり、ありがとうございました。
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