三淵忠彦さんは、初代最高裁判所の長官を務めた方です。
「虎に翼」では、星明彦として描かれています。
三淵忠彦さんは、三淵嘉子さんの義理のお父様にもなる人なんです。
その三淵忠彦さんの経歴や家族、死因なども調べてまとめました。
三淵忠彦(みぶちただひこ)とは?プロフィールを簡単に
三淵忠彦のプロフィール
三淵忠彦:旧姓は萱野
生年月日 1880年3月3日
出生地 日本・岡山県
没年月日 1950年7月14日(70歳没)
死没地 日本・東京都
出身校 京都帝国大学法科大学
宗教 キリスト教カトリック教会
Wikipediaより引用
三淵忠彦さんは、旧会津藩家老の実弟である
三淵(萱野)隆衡さんの長男として生まれます。
明治維新後は官吏として牛込区長なども務めましたが、
早逝してしまいます。
忠彦さんは、当時東京帝国大学法科大学に入学し、
学業に励んでいました。
しかし、父のみならず、母や弟も相次いで亡くなったため、
やむをえず学業を中断します。
しかし、京都帝国大学法科大学に再入学し、
25歳で卒業を果たします。
卒業後は、東京で石渡敏一氏の書生を務め、
その後判事となります。
しかし、45歳の時に退官して三井信託株式会社の法律顧問を務めることになります。
これは、同社が法律に沿って正しく信託を運用するために
法律の専門家が必要だったからだそうです。
実入からしても、裁判官よりは企業顧問の方が良さそうですから、
そういう経済的事情もあったかもしれません。
そうではあっても、今も企業弁護士さんはいらっしゃいますが、
裁判官を務めた方を顧問にする、という事例は
珍しいのではないかと思いました。
これ、全て戦前のことなので。
1945年に三淵忠彦さんは、三井信託株式会社を
60歳で退職します。
退職後は、悠々自適とばかりに、
文学や芸術を楽しんでいたそうです。
その後何と、67歳で最高裁判所の初代長官を務めることになり、
1950年に70歳で退官されました。
退官した4ヶ月後に70歳でその生涯を閉じています。
三淵忠彦の出身地は会津!叔父は旧会津藩家老だった。
三淵忠彦さんは、生まれたのは岡山県ですが、
父の家系は福島県会津若松市の出身です。
父親が、会津藩士でした。
三淵というのは、戊辰戦争において、
家名を断絶されたため、新しく名乗った名です。
戊辰戦争では、会津藩は敗戦するのですが、
その全責任を負ったのが3人の家老だったんです。
そのうちの一人、菅野権兵衛は三淵忠彦さんの父親の兄でした。
旧時代であれば、会津藩家老家の一族として
何不自由ない生活が約束されたのでしょうが、
時代が時代、大変な時に生まれてしまったのですね。
そうであっても、三淵忠彦さんのことを
「会津武士」の風格を持った、人格者として
評価する声は多かったようです。
会津といえば、
「ならぬものはならぬのです!」が有名ですが、
その気質を受け継ぎ、正しいことを愛する心が
最高裁判所長官へと導いたのかなって思いました。
三淵忠彦は初代最高裁判所長
三淵忠彦さんは、初代最高裁判所の長官を務めますが、
それは67歳という恒例での就任でした。
先にも書きましたが、
三淵忠彦さんは、45歳の時に判事から企業の法律顧問へ転職し、
60歳までその職を勤め終えています。
なぜ、その三淵さんが召喚されたのか?
それには、大きく2つ理由がありそうです。
1つは、任命した片山内閣総理大臣と旧知の仲だったということ。
裁判官在職中に、当時弁護士であった片山大臣と共に
労働法の制定や家庭裁判所の設置を支えたことから、
関係を深めて行ったそうなんです。
もうひとつは、参議院議長であった松平恒雄さんが
後押しをしたこともありそうです。
この松平恒雄さんのお父様は元会津藩主の松平容保だったとのこと、
三淵忠彦さんのお父様とは戊辰戦争後に、
厳しい道を共にしていたと言います。
もちろん、専門的な適性や人格もあったでしょうが、
当時の権力者の後押しは大きな決め手になったのではないでしょうか?
当時、三淵忠彦さんは、小田原に住んでおり、
東京まで通勤していたといいます。
長距離通勤の先駆け?とも思えますが、
それも戦争の爪痕だったんですって。
実は、この後書きますけど、
三淵忠彦さんは在官中に病気を患います。
そのため、8ヶ月間も登庁不可となったこともありました。
その後、登庁できるまで回復したものの、
病気が再発し、定年は病床にて迎えたそうなんです。
初代最高裁判所長官として、
国民から信頼される裁判所の設立に努め、
報酬が低かった判事の給与を引き上げるなど、
初期の最高裁判所の土台固めをした人物として
名前を残しているのです。
それって素晴らしい功績ですよね。
私としては、67歳という異例の年齢での就任に驚きました。
まだまだ、最後まで華を咲かせることができるんだって
希望にもなりました。
三淵忠彦の妻は2人
三淵忠彦さんは2回結婚していらっしゃいます。
初めの結婚は、1907年27歳の時です。
この年、三淵忠彦さんは2年の書生生活を経て、
東京地方裁判所の判事となっています。
ちょうどいいタイミングだったようですね。
最初の奥様のお名前は、小泉久子さんといいます。
お父様は、宮城控訴院判事の小泉忠武さん。
ご紹介だったのでしょうかね?
久子さんは、4人のお子さんを産んでいます。
しかし、15年後の1922年に心臓の病でこの世を去ってしまいます。
まだ子供たちは幼かったからでしょうか?
その年のうちに、三淵忠彦さんは、
後妻に白鳥静さんを迎えます。
静さんは男の子を一人産みますが、
戦争中に病死してしまいます。
続いて、三淵忠彦さんのお子さんたちについて解説します。
三淵忠彦の息子や娘、子供は5人!
三淵忠彦さんは、前妻の久子さんとの間に
3人の息子と1人の娘さんを設けています。
まず長男は三淵乾太郎さん。
裁判官であり、浦和地方裁判所長も務めていた方です。
三淵嘉子さんの2人目の旦那様です。
次男は萱野章次郎さん。
福島の、萱野家の名を継ぎ、家を再興しました。
千代田生命保険会社の社長さんでもあります。
三男は、三淵震三郎さん。
大東京火災海上保険常務まで務めた方です。
同社の会長のお嬢さんが奥様です。
長女は、石渡多摩さん。
日本開発銀行監事の石渡慎五郎さんに嫁いでいます。
この慎五郎さんのお兄様が、石渡荘太郎さんといい、
三淵忠彦さんが、書生時代に同じ部屋で寝泊まりをしていたのだそうですよ。
後妻の静さんとの息子さんが、1人。
四男の三淵粲四郎さん。
先述の通り、戦争中に病気で亡くなっています。
三淵忠彦の最後、死因は?
三淵忠彦さんは、70歳で最高裁判所長官を退官された直後に
お亡くなりになりました。
1948年、68歳の10月に内臓腫瘍を発症します。
その治療、療養のため、
8ヶ月も登庁不可となってしまいました。
この長きにわたる休養は国会でも問題視されたんだそうです。
しかし、翌年4月に、
「病状は順調に回復し、登庁も可能」と発表があり、
罷免を免れることができました。
そして、5月からは、また公務に復帰するのです。
しかし、病魔は三淵忠彦さんをさらに蝕みます。
1950年2月に裁判所内で倒れてしまいます。
そのまま、登庁は叶わず、
3月の退官も病床で迎えることになってしまいました。
退官後の翌日、
三淵忠彦さんは、妻の静さんの手引きで
キリスト教の洗礼を受けます。
ご自身の最後を悟っておられたのではないかなと思います。
そして、7月に惜しまれながら
この世を去ってしまいます。
享年70歳、まだまだできることがあったような気がしますね。
この頃、三淵嘉子さんはアメリカ視察のため日本におらず、
最後をお見送りすることは叶わなかったそうです。
帰国してから、ご焼香にあがり、
そこで長男の乾太郎さんと出会うのですから、
三淵忠彦さんの最後の仕事が
お二人の仲人だったんだなあって思います。
裁判所の基盤作りに力を尽くした三淵忠彦さんでした。
お読みくださりありがとうございます。
コメント