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千姫の子孫の現在や最後、結婚相手は何人?

どうする家康
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千姫は、徳川家と豊臣家をつなぐ架け橋として

豊臣秀頼と結婚するも、

夫が実家との諍いにより非業の死を遂げてしまいます。

しかし、その悲しみを乗り越えて再婚し、

円満な家庭を築いた千姫。

今回は千姫の最後や結婚相手、子孫の行く末も含め、波乱万丈の人生に迫ります。


千姫の最後、死因は病気?

千姫は1666年、

甥である徳川家綱が将軍職を務めていた頃に、

江戸で亡くなりました。

死因は肺炎とされています。

享年は70歳でした。

亡くなった夜、

父方の曾祖母・於大の方(おだいのかた)の菩提寺である小石川伝通院に納められ、

京都知恩院の高僧・知鑑(ちかん)により葬儀が行なわれました。

墓所は伝通院と、現在の茨城県常総市にある弘経寺にあるとされ、

また分骨されて、徳川家が古くから帰依していた

浄土宗の総本山である京都の知恩院に納められました。

知鑑は後に千姫の位牌や遺物を祀るため、

現在の三重県内に寺を開きました。

弘経寺では、長らく千姫の遺髪のみ納められているという言い伝えがありましたが、

近年になって、千姫の頭蓋骨や高価な宝飾品が発見されていることから、

江戸伝通院のほうこそが遺髪のみ、

あるいは分骨のみが納められているという

可能性が浮上しています。

地理的に、日光東照宮には

鬼怒川を上っていくと辿り着くこともあり、

公経寺に葬られているのではないかと

考えられているようです。

あの時代に、

70歳という高齢まで生きたことから考えて、

千姫の晩年は裕福かつ穏やかなものであったことでしょう。

肺を病むこともあったそうですが、

永らく健康体を維持していたと考えられます。

千姫の結婚相手、豊臣秀頼との仲はどうだった?

千姫は7歳の時、

豊臣秀頼と結婚し、大阪城に入りました。

そして19歳の時、

秀頼が大阪夏の陣で命を落とすまで

一緒に暮らしていました。

夫婦仲はかなり良かったようで、

千姫が16歳のとき、

秀頼が自ら千姫の髪を整えている姿を、

世話係の女性が目撃しています。

しかし実家である徳川家と嫁ぎ先の豊臣家は

徐々に険悪な仲となり、ついに関係は決裂。

大阪冬の陣、夏の陣で両家は対決します。

この戦いで豊臣家が住む大阪城は炎上しました。

その燃え盛る炎の中で、千姫は徳川家の家臣、坂崎直盛によって救出されました。

千姫は祖父・徳川家康のもとに赴き、

秀頼の命を助ける事を願い入れましたが、

ついに聞き入れられませんでした。

戦のあとの戦後処理において、

秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになりましたが、

千姫は彼女を自らの養女という事にしてから出家させ、命を助けています。

仲の良かった夫を実家によって殺されるという、

地獄のような苦しみを体験した千姫。

その心境は、察するに余りありますね。

想像すると胸が痛みます。

天秀尼を助けたことからも、

愛する夫の子を救いたいという

千姫の優しさが垣間見えます。

短い夫婦生活でしたが、

豊臣秀頼と千姫が過ごした時間は、

とても幸せで温かいものだったのだろうなあと思います。

千姫の結婚相手、本多忠刻との仲はどうだった?

千姫は秀頼の死後、一時は体調を崩し休養しました。

公家との再婚の話も浮上しますが、千姫はこれを断ります。

しかし徳川家康の勧めで1616年、

桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と結婚しました。

この時、実家である徳川家から持参金として

10万石相当の財産を譲られたといわれています。

とても破格な持参金ですね。

これは、千姫への贖罪も込められているような気がします。

肝心の忠刻との仲は、おおむね良好だったようです。

千姫は母方の祖母である

お市の方(織田信長の妹)の美貌を受け継いだ、

美しい姫君だったといわれています。

一方で本多忠刻も、

顔つきや態度に勇ましく鋭い気性が現れていると評判の

凛々しい武士であったとされています。

どうやら、夫妻は美男美女夫婦で有名だったようです。

千姫は懐が大きく、夫の側室と揉めたという形跡が一切ないことから、

嫉妬や憎しみとは無縁の、気が優しい性格の人物だったことがうかがいしれます。

初婚の相手とは悲劇的な終わりを迎えてしまった千姫でしたが、

二度目の結婚相手の本多忠刻とは円満な生活を築けたようですね。

私は、悲しい思いをした千姫が、

二度めの結婚では幸せを手に入れられたのだと知り、

本当に良かったと思います。

千姫の子孫は誰?現在は?

千姫と豊臣秀頼の間に実子はいませんでしたが、

本田忠刻との間には勝姫、幸千代の二人の子が生まれました。

幸千代は悲しいことに3歳で亡くなりました。

勝姫は無事に成長し、後の岡山藩主・池田光政に嫁いでいます。

勝姫と光政の間には

奈阿姫、通姫、池田綱政、ほか女子二人の、合計5人の子供が生まれました。

千姫にとっては孫にあたりますね。

このうち綱政は、岡山池田家二代藩主に就任して、

後楽園という広大な庭園を造営させました。

現在でも観光名所としてよく知られているところですね。

綱紀の5代子孫の徳川斉昭は水戸藩主を務め、

その息子の徳川慶喜は、

江戸幕府最後の将軍に就任しています。

激動の幕末に活躍した最後の将軍が

千姫の子孫であるなんて

なんだか運命的なものを感じます。

豊臣政権の終わりを千姫が見取り、

徳川政権の終わりをその子孫が見とったわけです。

池田家も徳川慶喜家も現代まで存続しているため、

サラブレッド・千姫の血筋は今も残っていることになります。

徳川家康の孫娘という超お嬢様の血統が、

いろいろな家系を経て現代まで続いていて、

千姫の子孫がこの日本のどこかで暮らしていることを考えると、

なんだかロマンを感じますね。

千姫は大奥にいたって本当?

千姫は二度めの結婚では幸せに暮らした、と先に書きましたが、

その幸せは実は長くは続いていないのです。

結婚した10年後の1626年に、

夫の本多忠刻は亡くなってしまいます。

そのため、出家して天樹院と名乗り

江戸城内の竹橋にある御殿で勝姫と共に暮らすことになります。

1628年に勝姫が池田光政に嫁いでからは、

しばらく一人だったようです。

その後、1644年に家光の側室夏と、

家光の三男綱重とともに暮らすようになります。

これを機会に、

綱重を自分の養子にとり

そこから大奥への発言権を高めていったと

言われているのです。

まあよく考えれば、

時の将軍の姉であり、その次の将軍の叔母ですから、

何かと皆が頼ったということもあるかもしれませんね。

それでも、その人格を悪くいう資料は残っていないので、

人間的にはよくできた女性だったとも考えられます。

頼りになるおばあさまとして

最後まで徳川のために尽くしたのでしょうね。

千姫の生涯、よくよく知ると

悲しいだけではなく、

意思のある女性として天命を全うした方なんだと思えました。

読んでくださり、ありがとうございます。

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