三淵嘉子さんは、日本初の女性弁護士の一人です。
その生涯は波瀾万丈、お子さんは実の息子さんと再婚相手の連れ子さん、合わせて5人いたそうです。
今でもご活躍のご子孫がいらっしゃるか、
三淵嘉子さんの死因やお墓についても調査しました。
三淵嘉子のwiki日本初の女性弁護士のプロフィールは?
まず、三淵嘉子さんのプロフィールを簡潔に紹介します。
三淵嘉子のwikiプロフィール
三淵嘉子/みぶちよしこ:武藤嘉子(旧姓)・和田嘉子(初婚での名)
生年月日:1914年11月13日
没年月日:1984年5月28日 享年69歳
学歴:東京府青山師範学校附属小学校
東京女子高等師範学校卑属高等女学校
明治大学専門部女子部法学科(法学部)
経歴 第二東京弁護士会に登録(1940年)
裁判官採用願を提出し、司法省民事局付・最高民事局局付・家庭局局付(1947年)
東京地裁判事補(1949年)
名古屋地方裁判所で初の女性判事となる(1952年)
東京地裁判事(1956年)
東京家庭裁判所判事(1963年)
新潟家庭裁判所長(1972年)
浦和地裁所長(1973年)
横浜地裁所長(1978年)
退官(1979年)
弁護士として再活動(1980年)
三淵嘉子とはどんな人?
三淵嘉子さんは、台湾銀行にお勤めだった武藤貞夫さんとノブさんご夫婦の
長女として誕生されました。
当時、シンガポールに住んでいたことから、
シンガポールの漢字表記「新嘉坡」から1文字とって
嘉子と名付けられたそうです。
父親はとても進歩的な考えを持つ方だったらしく、
当時は女性は家に入って親・夫・子に尽くすべきと
考えられていた時代に
一人の人間としての自立を嘉子さんにも促したそう。
そのおかげで、法律家への道を志したのですね。
経歴を拝見すると
弁護士から裁判官へとキャリアを転身させています。
これは、弱いものを守るという気持ちの
表れだったのかなとも思いました。
罪を裁くお役目、裁かれる方の声に耳を傾け
その罪を償う気持ちにさせることも
大事だったと思うんですよ。
実際には、戦争で大事な家族や家などを失い、
子供を育てるためには
弁護士よりも裁判官の方が仕事があるから
という見方もあるかと思います。
でも、真相はご本人しか知らないことですし、
まだ私もそこまで調査ができていないので
もう少し、三淵嘉子さんのことを知りたいと思ったところです。
三淵嘉子の子どもは何人?
三淵嘉子さんには、お子さんが5人いらっしゃいます。
そのうち、実の子は1人だけです。
なぜなら、結婚した夫が戦争で招集された先で
病気を発症し、生きて帰ることができなかったからです。
この夫は、和田芳夫 という方で、武藤家の書生をしていた方だそうです。
肋膜炎という病を患っていたため、
一度は消臭を免れたのに、
二度目の招集先で発病し、帰国の途中に
長崎の病院でお亡くなりになったのだそうです。
この時、実子である息子芳武さんは3歳で
嘉子さんは残された家族や息子を育てるために
必死だったといいます。
他の4人のお子さんは
1956年に再婚した三淵乾太郎さんの連れ子さんです。
この時、三淵嘉子さんは42歳でした。
三淵乾太郎さんは、初代最高裁長官だった三淵忠彦さんの息子さんで、
やはり裁判官をされていた方ということです。
それにしても4人の連れ子で一気に5人の子の母になるっていうのは
すごいことですよね。
では、その4人のお子さんについてです。
実は、前妻の死から1年後の再婚ということで
4人のお子さんとの折り合いは難しいものがあったそうです。
年齢順に紹介します。
長女 那珂さん
次女 奈都さん
三女 麻都さん
長男 力さん
特に、長女の那珂さんは、ご結婚されていたものの
嘉子さんに対してはキツイ態度で対応したという
エピソードもあったんですって!
女同士、って意外にキツイんですよね。
家族の中では猛女というあだ名もつけられたくらいだから
嘉子さんも負けてはいなかったんですね。
そのぶつかり合いは家族になった証なんじゃないかなって
私は思いましたよ。
三淵嘉子の子供の現在は?
さて、その5人の子供たちの現在についてです。
残念ながら、4人の連れ子さんについては
今のところ情報は見つかりませんでした。
鋭意捜索中なので、追記を楽しみにお待ちください。
実子の和田芳武さんについては
わずかですが記録がありました。
1943年に誕生し、嘉子さんのもとで育てられました。
なんと、東京大学伝染病研究所寄生虫研究部で学び、
東京女子医科大学寄生虫学教室で寄生虫研究者としてご活躍されていたのです。
お母様も、人を助けることを使命としていらっしゃいましたが、
お子さんの芳武さんもジャンルは違えども
同じように人の命を助けるお仕事に携わっていたことに
びっくりしました。
親子って、同じ方向を向くものなのですね。じ〜〜ん涙
その芳武さんですが、2021年にご逝去されています。
その理由はわかっていませんが、
戦後の大変な時代を生き抜き、研究に身を捧げた生涯だったのですね。
三淵嘉子さんの評伝を残す作業においても
惜しみない協力をされていました。
三淵嘉子の孫は誰?何をしている?
次に気になるのは、三淵嘉子さんのお孫さんです。
何人いたのか、今はどうしているのか?
結論から申し上げると
今は情報が見つかっていません。
芳武さんも結婚をされていたのか、お子さんがいたのか、
ということもわからないんですよ。
もし、お孫さんがいらっしゃれば
4〜50代になっていそうです。
一般人として生活されていたら
騒がしいのは好まないかもしれないですね。
連れ子さんのお子さんはいらっしゃるのではないかと思うのですが、
公開されていないのです。
ただ、晩年乾太郎さんと、義理の母が住んでいた小田原の「甘柑荘」という邸宅に
子供や孫と集まったという記載があるため、
おそらく、お孫さんは何人かいらっしゃると思われます。
よくよく考えると、
裁判官や弁護士さんというのは
裁判を通して、あらぬ恨みを持たれることがありますよね。
嘉子さんも東京地裁判事の時代に、
担当していた民事事件の当事者から切り付けられる
という事件がありました。
怪我がなかったので何よりでしたけど、
そういうことが身内に起きたら怖いと思います。
だから、公開もされていないのではないかと私は考えています。
今後、なんらかの情報が公開されたら
こちらの記事にも追記していきますね。
三淵嘉子の死因とお墓は?
三淵嘉子さんは、
1984年に骨肉腫のため逝去されました。
日本女性が法曹界で活躍する先駆けとなり
後進たちへの道を切り拓いた
行動力溢れる女性も、病には勝てませんでした。
享年は69歳です。
今も当時も、早すぎる死を悼んだことでしょう。
嘉子さんは、引退したら先述の「甘柑荘」で
乾太郎さんとゆっくり暮らすつもりだったようです。
現在は、分骨されて2ヶ所あるお墓に葬られています。
死に別れた前夫である、和田芳夫さんのお墓(丸亀市の本行寺)と、「甘柑荘」裏の霊寿院です。
これは、嘉子さんが生前希望していたことで、
霊寿院には「三淵氏の墓」に乾太郎さんと共に眠っていらっしゃいます。
三淵嘉子は裁判を変えた女性かも!
私は家庭裁判所に、女性が携わったことは、
その後の女性や子どもたちを
酷い境遇から救い出す希望となったと思いました。
なぜなら、現在でも日本の法律は、
男性目線で決められていることが多く
女性や子どもなど社会的弱者の目線には
まだまだ立てていないと思うからです。
だから、家庭の繊細な問題に対し、
法的な判断を下すこの家庭裁判所に、
女性が入ることは、多面的な判断が期待できると考えました。
これからも、三淵嘉子さんが切り拓いた道は
次の改革者たちが引き継いでくれることと思います。
三淵嘉子さんの使命が、これからの日本の法曹界を
多様性を持った社会へより適応していくことを願ってやみません。
読んでくださり、ありがとうございました。
*「虎に翼」キャストモデル相関図はこちらです
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