PR

豊臣秀頼の最後、父親は誰?マザコン、孫が天草四郎の噂は本当?

どうする家康
記事内に広告が含まれています。

豊臣秀頼は、

低い身分から出世し天下人となった

豊臣秀吉の唯一の子であるとされています。

今回は秀頼の本当の父親は誰なのか、

マザコン説は本当なのか、

そしてどのような最後を迎えたのかに迫っていきます。


豊臣秀頼は誰の子?父親は誰?

豊臣秀頼は、公式には、

豊臣秀吉とその側室、淀殿の間に

できた子であるとされています。

しかし、実は、

淀殿と、秀吉以外の男性の間に

できた子供ではないかという噂もあるのです。

その理由として3つほどあげられています。

1つには、秀吉に子種がなかった可能性が高いからです。

秀吉は、正室であるねね(北政所)や、

そのほか多数の側室と関係を持っていましたが、

どの女性にも子供は生まれませんでした。

そのため、

淀殿だけ子供ができたというのは、

どうもおかしいという憶測が飛び交っても不思議ではありませんよね。

2つめには、

秀頼は外見が秀吉と全く似ていなかったようなのです。

小柄な秀吉とは違い、

秀頼は身長190センチくらいのがっしりした体型だったそうです。

私は、見た目が似ていない親子は

よくあるんじゃないかなって思うのですけどね。

そんなことから、

秀頼の本当の父親候補としては、

秀吉政権の事務方トップだった石田三成や、

淀殿の側近だった大野治長、

秀頼と外見が似ていたとされる加藤清正らがあげられています。

3つめには、秀吉が朝鮮出兵で

九州の陣に入っていた頃、

淀殿は頻繁に祈祷の会をしていたとのことなんです。

そんな時期に身籠ったことから

祈祷に関わった陰陽師ではないかという説もあるんですよ。

こんなに、本当の父は誰だ?疑惑があるって

さすが豊臣秀吉の後継者だけありますよね。

 秀吉の権力によって

無理やり側室にされてしまった淀殿。

そんな彼女が子種のない秀吉というおじいさんに愛想をつかし、

また自身の立場を保つため、

ほかの男性と関係を持ったとしても、

無理はないように思えます。

淀殿は悪女のように言われていますが

私は彼女の本音を聞いてみたいと思います。

豊臣秀頼の最後は?死因は自害だった?

豊臣秀吉の死からわずか2年後の1600年、

秀頼が8歳の時に、

関ヶ原の戦いが起こり、

徳川家康率いる東軍が勝利を治めました。

秀頼はこの時直接戦いには参加しておらず、

淀殿も豊臣家の家臣同士の内紛と見ていたようなのです。

しかし、

このとき豊臣家に忠節をちかう石田三成など

多くの武将が命を落とし、

豊臣家の権威が弱り始めます。

戦の3年後の1603年には、

徳川家康が朝廷工作を行い、

ついに征夷大将軍の地位につきます。

豊臣家と徳川家の地位は逆転してしまうのです。

一方で、まだ淀殿は、

豊臣家が天下人であるという幻想を信じていました。

しかし1615年、

家康は豊臣家が所有していた

寺の鐘に刻まれた文字が不吉であると

言いがかりをつけて淀殿を怒らせてしまいます。

この諍いは、ついに戦に発展してしまうのです。

それが大阪冬の陣、夏の陣。

この戦において、豊臣方は大敗北を喫し、

秀頼は燃え盛る大阪城の中で、

母淀殿と共に壮絶な自害を遂げました。

徳川家と融和的な関係を築いていれば、

一大名として生き残れたかもしれなかったですよね。

淀殿が強気の態度を貫いたために、結果として犠牲になった秀頼。

秀頼自体には、悪い噂をあまり聞いたことはありません。

よくあることですが、

後継者が優秀なことを家康が嫌ったということも考えられます。

運命に翻弄された豊臣秀頼は

実は可哀そうな人物だったのかもしれませんね。

豊臣秀頼はマザコン?淀殿が溺愛していた!

豊臣秀頼の母である淀殿は気性が激しく、

プライドが高かったようです。

また、秀吉が亡くなった後、

後ろ盾がいなくなった秀頼を溺愛し、

最後まで秀頼が天下人であると主張し続けました。

秀頼の立場を守れるのは自分しかいないという自負が、

淀殿をそのような性格にしてしまったのかもしれません。

元を正せば、淀殿は織田信長の姪です。

天下を取るということに

憧れのような、使命のようなものを

感じていたとしても

おかしくはないですよね。

信長から秀吉に渡った天下人を

自分と秀吉の息子である秀頼に継がせたいと

考えたのかもしれないですね。

秀頼は

そんな母淀殿の気迫に逆らうことができず、

また自身も母を愛していたため、

重要政策を決めるときには、余程のことが無い限り、

常に淀殿の意向を尊重していたようです。

一種の共依存関係だったといえるでしょう。

気が強く支配的な母と、

そんな母を愛し言いなりになる息子。

この姿は、まさに戦国版のマザコンと言って過言ではないでしょう。

私は、秀頼が徳川と和合できなかったのは

母、淀殿を大事に思いすぎたこともあったのではないかなって思いました。

豊臣秀頼の孫が天草四郎って噂は本当?

天草四郎は、

1638年に肥前・肥後地方で起きた島原の乱の

反乱軍の首領として活躍した人物です。

この天草四郎が、

秀頼の子または孫であるという噂があります。

え〜、嘘でしょ!!

と私も最初聞いた時は思いました。

噂の根拠は2点あります。

一つは、四郎が使用していた馬印が、

豊臣秀吉のものと同じ瓢箪である事です。

もう一つは、

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きのいたり鹿児島へ」

という童歌が、一部地域で残っていることがあげられます。

それを聞くと、

何やらそんな奇跡のようなこともあったのかしら・・って思えちゃいますね。

まあ、でもこれらの噂も

事実ではないという理由もありました。

天草四郎は、本名を益田四郎時貞といい、

1621年に現在の熊本県宇土市付近で生まれました。

父である益田甚兵衛は

熊本の豊臣家恩顧の大名小西行長の元家臣で、

小西家が没落した後、農業を営んでいました。

このため、四郎が瓢箪の馬印を使ったのは、

父が豊臣系列の武士だったから、

と考える方が合理的です。

童謡も、

実際に秀頼が大阪城から落ち延びるのは至難の業で、

どう考えても無理があるため、

いわゆる判官びいきの一種ではないかと思われます。

これらの事から、

四郎が秀頼の子か孫であるとする説は、全くの噂に過ぎないと思えますね。

悲劇の最後を迎えた人物が、

実は生き残っており、

別の新天地へ移住して子孫を設けたという設定の噂は、

敗者を憐れみ、

どうにかして生きていてほしいと願ういかにも日本人的な発想ですね。

徳川ではなく、豊臣の世を望んだ人も

あの時代は多かったのかもしれませんね。

若くしてその命を散らした豊臣秀頼。

享年は、23歳。

短すぎる波乱に富んだ一生です。

読んでくださり、ありがとうございまし

コメント

タイトルとURLをコピーしました