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小早川秀秋の子孫は?関ヶ原の戦いで裏切った理由、死因はアル中?

どうする家康
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戦国・安土桃山時代においてもっとも有名な裏切り者ともいわれる小早川秀秋。

今回は彼の出自から関ヶ原での行動、

そして死に至るまでの人生や、

子孫の有無に至るまでを紹介しますね。


小早川秀秋が関ヶ原で裏切った理由は?

1600年、18歳の小早川秀秋は

関ケ原の戦いに参加し、

西軍側の武将として、関ヶ原の南方にある松尾山に陣取ります。

そして戦闘開始後に西軍を裏切って東軍側に寝返り、

その勝利に貢献しました。

以前の学説では、

戦闘が始まってからも

秀秋は西軍東軍どちらの見方をするか迷っていたため、

何時間たっても秀秋の軍が動く様子を見せず、

これに東軍の徳川家康がいら立って

秀秋の陣に向けて鉄砲を発射して脅したところ、

家康を恐れた秀秋が寝返りを決めたとされていました。

私も、ドラマで徳川家康が、

小早川秀秋を脅す場面を見たことを覚えています。

最近の研究では、

秀秋は午前10時の開戦直後から西軍を裏切って攻撃を始めたとされています。

戦が始まる前から、

秀秋は西軍、東軍双方から勧誘を受けており、

両陣営が提示した条件を比較した結果、

東軍の方が得だと考えたため、

最終的には西軍を裏切ったようです。

私はこの話を知った時、

損得で判断し味方と思われた人たちを裏切ったことに

とてなも驚きました。

武将というものは、

主人に対して忠義の意思を持っているものだと

思っていたからです。

そう思う人は、

当時からも多かったのでしょうねー。

秀秋が西軍方を裏切ったことについては、

世間での評判は芳しいものではなかったようです。

豊臣家の養子を皮切りとしてスピード出世したにもかかわらず、

その恩を忘れて裏切り、

西軍を崩壊させたのは卑怯な行為

として庶民からは馬鹿にされていたようです。

先にも書いた通り、当時秀秋は18歳ということです。

豊臣方の重要人物ではあったものの

人間的には成長しきれていなかったのかもしれないですね。

今も昔も、人を裏切るという行為は

良いものと思われないですよね。

小早川秀秋の子孫の現在は?

小早川秀秋は若くしてこの世を去っているため、子孫はいません。

秀秋の正室である長寿院は

親戚筋である毛利輝元の養女でした。

1594年に結婚しましたが、

秀吉の死で大名間のパワーバランスが変化したことにより夫婦仲が悪化し、

1598年中に離縁がまとまり実家に帰ったようです。

秀吉の死は、若き秀秋夫婦にも

大きな傷をつけたのですね。

一方で、別の女性と秀秋との間に子供がいたという説がありますが、

それを示す確かな資料は残っていないため、

伝承の域を出ない話となっています。

秀秋の死後、小早川家は取り潰しとなりました。

しかし、小早川家が現在も断絶しているのかといえば、そうではありません。

明治時代に入り、毛利本家が小早川家を復活させています。

元々、小早川の家は、後継がおらず、

1544年に毛利元就の三男である隆景が養子として

小早川家を継いでいます。

その隆景にも子がいなかったため、

秀吉の養子となっていた秀秋を

養子に貰い受けたということでした。

そんなことから、毛利家と小早川家には

縁があったのです。

明治に入って、小早川の家を毛利家の三郎が継いだそうですが、

三郎が若くして亡くなったため

その弟の四郎が当主となったそうです。

しかし、その四郎にも子ができず、

またまた毛利家から養子をとったとのこと。

それが先代の小早川元治さんで、

その実子の小早川隆治(たかはる)さんが

モータージャーナリストとしてご活躍されているそうなんです。

つまり、秀秋の直接血のつながった子孫はいないものの、

小早川家として見た時の子孫が現在でも存在しているのです。

秀秋の子孫が残っていないことは

なんだか悲しい気がしますが、

名家としての小早川家だけでも復活できたことは、

何ともドラマティックだなあと感じました。

小早川秀秋の死因、若くして亡くなったのはなぜ?

小早川秀秋は、

幼くして義理のおじ・豊臣秀吉の養子となったため、

将来的に秀吉の跡を継ぐ可能性が浮上しました。

そのため、秀秋に取り入ろうとする大勢の大名から頻繁に接待を受けるようになったそうです。

7歳で元服してからは、

まだ幼いにも関わらず、

毎晩酒を飲み続けることになりました。

これが原因で、秀秋は酒が止められない体になり、

慢性的なアルコール中毒だったといわれています。

聖護院の僧侶・道澄の残した記録によると、

上方から帰国する途中に行った鷹狩の最中に体調を崩し、

その3日後に死去したと記されています。

小早川秀秋の死に関しては、

関ケ原での裏切りに対する世間の評判を気に病んだ秀秋が

精神に異変をきたして死んだとする説がありました。

私が先にあげたドラマの中でも、

そのような最後を遂げていたことを記憶しています。

実際に記録に残されている症状からは、

アルコール依存症による内臓疾患が死因として最有力となっています。

小さいころから半強制的に酒を飲まされ続けたことで

自分の意思で酒を止められなくなってしまった小早川秀秋。

それが原因で、若くして命を落としてしまったことは、

なんだか可哀想な気がします。

裏切り者と言われているものの、

小早川秀秋が辿った人生を調べていくと

結局は権力争いに巻き込まれて

命を生かしきれなかった

哀れさをも感じられてなりません。

小早川秀秋とは?を簡単にまとめ

小早川秀秋は、

1582年、木下家定の子として生まれました。

木下家定は豊臣秀吉の妻であるねねの兄であったので、

秀秋と秀吉は義理のおじと甥という事になります。

2歳の時に、当時実子がいなかった秀吉の跡継ぎ候補として養子に入ります。

7歳の時に元服し、丹波国に10万石の領地を与えられます。

このとき、ほかの大名からは関白・豊臣家の重要人物とみなされました。

しかしその後、秀吉の側室である淀殿が秀頼を生んだことから、

秀秋は秀吉にとって邪魔な存在となり、

九州地方の大名で実子のいなかった小早川隆景の養子として、追い出されることになります。

15歳の時に、隆景が死去したため、家の後を継ぎ、大名となりました。

18歳の時関ケ原の戦いが起き、秀秋は1万8000の兵を率いて一旦は西軍の見方として着陣しますが、

戦闘開始後に東軍に寝返り、その勝利に貢献しました。

この功績により、戦後に岡山に55万石の領地を与えられますが、

21歳の若さで、病によりこの世を去りました。

天下人・豊臣秀吉の親類として破格の待遇を受け、

最終的には大大名まで出世したにもかかわらず、

若くして亡くなってしまった小早川秀秋。

この人の生き様からも学ぶことが多いと思いました。

読んでくださり、ありがとうございました。

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