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秋月恵美子はOSK男役トップスターだった、笠置シヅ子との関係は?wikiプロフィール

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秋月恵美子さん、昭和初期から平成の時代に

レビューの舞台に生きてきた

OSK(大阪松竹歌劇団)の大スターです。

どんな人なんだろう?と気になったので、

そのプロフィールや笠置シヅ子さんらとの関係を調べてまとめました。


秋月恵美子のwikiプロフィール

秋月恵美子さんの出身は大阪府です。

大正6年(1917年)に誕生し、

1930年(昭和5年)に松竹学劇部に入団しています。

本名は、金子三枝子さんです。

1950年代には映画にも出演されています。

代表作には、「夢を召しませ(1950年)」「歌う弥次喜多黄金道中(1957年)」、

美空ひばりさん主演の「七変化狸御殿(1955年)」などがあります。

昭和48年(1973年)に引退した後は、

OSK日本歌劇学校の講師として

若手の指導に力を注ぎました。

2002年(平成14年)にご逝去されています。

享年は85歳でした。

秋月恵美子はOSK男役トップスター

先にも触れましたが、

秋月恵美子さんは昭和の時代に

大阪松竹歌劇団(OSK)のトップスターとして

大活躍をされた女優さんです。

入団した当初、

桃色争議という待遇改善を望んだ楽劇員たちと

会社との間に諍いが起こります。

松竹楽劇部のトップスターでもあった

飛鳥明子さんはその中心人物として活動したため

争議終結後に退団を余儀なくされました。

この争議は、当時の社会問題となり、

松竹楽劇部は人気も低迷し不景気の中大打撃を受けます。

そんな時に、楽劇部を支えた一人が

秋月恵美子さんでした。

秋月さんは、男役トップスターとして

娘役の芦原千津子さんとのコンビが

大人気になったんです。

秋月恵美子さんは

ダンスに頭角を表した方です。

得意なのはタップダンスですが、

それ以外にも剣舞や日本舞踊なども

こなしたと言います。

ミュージカルにも出演されているので

歌も上手だったのでしょうね。

OSKの人気を立て直したそうなんですね。

その後昭和13年(1938年)に

東京松竹歌劇団の旗揚げに参加します。

そこで戦後の松竹歌劇団の黄金時代を

築くのです。

大阪から東京まで、

まさに歌劇の大スターですね。

現役を引退してからは

講師として若手の指導を熱心におこなったそうです。

本当に、松竹にとっては

秋月恵美子さんさまさまといった感じだったと

思いますね。

映画やフィルムも残っているようなので

どんなお姿なのか見てみようと思います!

*桃色争議についてはこちらに詳しく書いていますのでお読みくださいね。

秋月恵美子と笠置シヅ子との関係は?

秋月恵美子さんは、

笠置シヅ子さんの3歳年下です。

後輩に当たりますが、

活躍されたのはほぼ同時期です。

特に、桃色争議の後は、

トップスターが抜けた穴を

笠置シヅ子さん、秋月恵美子さんらが埋めてきたのです。

笠置さんと秋月さんが

コンビを組むことはそうなかったようですが、

なんと2人でおこなった共同作業があるんですよ。

それが

東京松竹歌劇団の旗揚げでした。

昭和13年の旗揚げに際し、

秋月恵美子さんと笠置シヅ子さんは

共に上京して旗揚げに参加しています。

その後、2人の活躍は目覚ましく、

東京松竹歌劇団は、

本家の大阪松竹歌劇団を凌ぐほどの

人気劇団になっていったんです。

才能ある二人の活躍が

新しい劇団を作ったというエピソードには胸がワクワクします!

すでにこの世にはおられないお二人ですが、

その魂はしっかりと後輩たちに

引き継がれているんだなあと

感動しています。

秋月恵美子の最後とお墓はどこに?

秋月恵美子さんは、

2002年(平成14年)8月16日に

ご逝去されました。

享年は85歳でした。

なくなった理由は心不全だったということです。

秋月さんが天塩にかけたOSK日本歌劇団が

親会社である近畿日本鉄道の意向により

支援を打ち切られたことで

その歴史に幕を閉じることが報道された翌年のことでした。

関係はあるかどうかはわかりませんが、

晩年は寂しい思いをされたのでしょうね。

秋月恵美子さんのお墓は

大阪市天王寺区にある浄國寺にあるということです。

墓石には碑も刻まれています。

今でもファンがお墓参りに訪れているようですね。

それだけの大スター、やっぱりリアルを見ていたいな。

読んでくださりありがとうございました。

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