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本多忠勝の妻、娘や息子、最強の理由や最後は大阪の陣?

どうする家康
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徳川家の繁栄や江戸幕府の創立に貢献し、のちに徳川四天王と賞された本多忠勝。

今回はその最強伝説や、娘や息子の状況から最後まで、その生涯をご紹介します。

徳川の歴史を紐解く時になくてはならない人物として

本多忠勝は、私にとっても興味深い武将の一人です。


本多忠勝の妻、側室は何人?名前は?

忠勝には正室が一人、側室が一人いました。

正室は、三河の国、能見松平家の一族である

阿知和玄鉄の娘・於久の方です。

1569年10月に家康が仲立ちをして忠勝と結婚しました。

1601年、忠勝が桑名藩へ転封となった際は、

次男の忠朝が支配する大多喜藩に残り、

桑名へは行きませんでした。

側室は一人おり、松平家家臣であった

松下弥一の娘・乙女の方です。

父の松下弥一は乙女が幼い頃に亡くなったため、

彼女は寺に預けられました。

その寺に兵法を習いに通っていた本多忠勝と出会い、

1566年に夫婦となります。

1601年の転封では、忠勝とともに桑名藩へ移住しました。

結婚した時期は乙女の方が先だとされていますが、

忠勝からすると、於久の方は主人にあたる家康の親戚筋の姫君にあたります。

そのこともあってか、

先に嫁いでいた乙女の方ではなく於久の方が正室となったようです。

先に結婚した人がいるのに、

身分の差によって後から嫁いできた人が正室になるというのは、

この時代らしい現象ですが、現代の感覚ではちょっと考えにくいですね。

そのことに黙って従った(?)乙女は立派だなあと思わざるをえませんね。

本多忠勝の娘稲、息子忠政や忠朝はどうなった?

稲姫は、忠勝と乙女の方の間の娘として生まれました。

長年にわたり対立抗争を続けていた

徳川家康と真田昌幸が、

1587年3月に豊臣秀吉の命により

昌幸を家康の家臣することで決着したことを契機に、

両家の仲直りの象徴として、

稲こと小松姫と真田信之(昌幸)の子の婚約が成立しました。

本多忠政は1575年、忠勝の息子として生まれました。

1590年の小田原征伐に初陣した後、

1600年の関ヶ原の戦いにも従軍。

1609年6月に桑名藩の第2代藩主となりました。

大阪の陣にも参加して数々の武功を立て、

それらの功績により1617年に姫路城主となって15万石を与えられました。

本多忠政は1582年、忠勝の次男として生まれました。

父によく似た武闘派の武将で、

1600年、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍。

その後1614年、大坂冬の陣でも活躍しますが、

酒を飲んでいたために油断し、敵の攻撃に敗れました。

それを家康に叱られた忠朝は、

翌1615年の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと先鋒を務め、

敵の軍に正面から突入し、奮戦ののち戦死しました。


残念ながら敵に討たれてしまいましたが、

敵の大軍に正面から立ち向かった忠政の姿は、

父親譲りの死をも恐れない勇敢な性格だったことを現しているようです。

これらのことから、3人とも忠勝の武将たる気質を受け継いだ

誇りと強さを兼ね備えた人物だったのだなあと思いました。

本多忠勝が最強と言われる理由は?

忠勝は、生涯において

57回もの合戦を経験したにもかかわらず、

傷一つ負わなかったという強い武将でした。

このため、忠勝は徳川最強の武将と言われているのです。

忠勝は1560年、13歳の時に桶狭間の戦いで初陣。

1563年の三河一向一揆では徳川方として参戦しています。

徳川家康と織田信長との同盟が成立した後、

忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどを経て

1570年の姉川の戦いにも参加し、朝倉方の豪傑との一騎討ちで有名になりました。

1572年の二俣城の戦いでは偵察隊として参加。

同年12月の長篠の戦い、

1580年の高天神城奪還戦における忠勝の活躍は

敵味方を問わずに賞賛され、家康からも大いに褒められました。

1584年の小牧・長久手の戦いでは、

豊臣方16万の大軍の前に忠勝は少ない兵を率いて立ちはだかり、

豊臣方を撤退させています。

この豪胆な行動により、

豊臣秀吉からも東国一の勇士と絶賛されました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、友軍の補助をした後本戦でも奮戦し、

わずかな軍勢で90個もの首を挙げました。


これだけの戦いに参加していたのに、深手を負う事もなく、

命を落とすこともなかった忠勝。

その最強の理由は、忠勝が類まれなる知力・体力・戦闘センスを

持っていたからに違いありません。

本多忠勝の最後、大阪の陣には出ていない?

本多忠勝は関ケ原の功績により、

1601年に伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)に

10万石の領地を与えられました。

忠勝は桑名藩の藩政に専念し、

赴任してすぐに城郭を修築させ、

都市計画を実行しましたが、

1604年頃から病気がちとなりました。

そして江戸幕府の中枢からは遠ざかりました。

その後、忠勝1607年には眼病を患い、

二年後には嫡男・忠政に家督を譲って隠居しました。

は1610年2月には、徳川秀忠が行った大規模な巻狩に同行するも、

最後は同年10月、桑名において63歳で病死しました。

死の間際に作成された遺書の一節

「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」

は、主君である家康への深い忠誠心を物語っています。

大阪の陣が起こったのは、忠勝の死から7年後の事です。

忠勝は晩年病気がちとなり、戦に出ることはありませんでしたが、

亡くなるまで変わらずと家康への熱い忠誠心を持ち続けた忠義の士であったようです。

本多忠勝の人生を省みると、忠義と自分の信念が窺える

まさに猛者と言える人だったのだなあとつくづく感嘆の思いです。

読んでくださり、ありがとうございました。

*本多忠勝は徳川四天王の1人として有名でしたね。他の四天王はこちらからお読みください。

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