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大野治長の子孫や淀殿、秀頼との関係は?イケメン武将その最後も!

どうする家康
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安土桃山時代・豊臣政権末期から江戸時代前期にかけて

活躍した大野治長。

その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

淀殿や秀頼との関係性やその最後、

また子孫がいるのかどうかまでを調べました。

個人的には、イケメンというところが

とても気に入っている武将です。


大野治長はイケメン!豊臣秀頼の父親説もあり

大野治長は、、長身で色白でイケメンであったと言われています。

一説では、治長の容姿が、豊臣秀頼と似ていたため、

淀殿と治長が男女の関係を持ち、

二人の間にできた子が秀頼だとする説もあります。

秀頼のお父さんは誰なんだ疑惑は

いろいろな方を父親にしていますね。

しかし、大野陽菜が父親説については、

はっきりとした資料は残っていません。

とはいえ、なんでそんなことが言われているのか、

どうやら今も昔も変わらずで、

ゴシップネタは庶民の格好の話題だったようなんです。

江戸時代に刊行された『看羊録』という書物では、

秀吉の遺言によって家康が淀殿を妻にしようとしたところ、

治長の子を宿していた淀殿が拒否したとまで書いています。

ここに家康が入ってくるところが

びっくりですね!

また、『明良洪範』という書籍では、

秀頼は秀吉の実子ではなく

治長と淀殿の子だと記しています。

さらに淀殿は

歌舞伎役者の名古屋山三郎という美男を

寵愛して不義を働いていたとも書いています。

そう書かれると、

やはり事実なのでは、、と思いたくなりますね。

私は単純なので、

そう言われたら「へーそうなんだ」

とまともに受けてしまいそうです。

しかし、多くの歴史学者は、

これは当時のうわさ話を、

著作者が本の売り上げを上げるために大げさに書いたものに過ぎない

と評価しています。

つまりは、事実ではない、ってことですね。

多くの民衆が

有名人や高い地位にある人のゴシップネタに関心を寄せ、

それを題材にしてさらに話を大きく広げた刊行物がよく売れる様子は、

現代とあまり変わらないようです。

それだけ、イケメンとイケ女は

人の関心を煽り立てるものでもあるんだなとも思いました。

大野治長と淀殿の関係は実際はどうだったの?

大野治長と淀殿不倫説、

実際はどうだったのかをもう少し調べてみました。

大野治長は1569年頃の生まれとされていますが、

その前半生については詳しい資料が残っておらず、

不詳となっています。

しかし実母の大蔵卿局が、

近江の国小谷城主だった浅井長政の長女・淀殿の乳母であったので、

治長と淀殿は兄弟に近い関係性だったと推測されています。

茶々の時代からよく知っている間柄、

秀吉よりも親しくても無理はありませんね。

大蔵卿局および治長らは、

小谷城以来、ずっと淀殿に付き従っていたと考えられています。

しかし、1583年の越前北ノ庄城の落城後は

その所在すら不明とされており、

大野一族がどのような顛末をたどったのかは分かっていません。

しかしながら、

治長は、いつの間にか

秀吉の馬廻衆(側近の護衛隊)となっていました。

時期については淀殿の処遇に合わせた動きとみられるので、

淀殿が秀吉の側室となった1588年頃か、

もしくはその少し前と推測されています。

江戸時代初期より、

治長が淀殿と密通していたと噂が流れ始め、

いくつかの書物にもそのことが記されていますが、

これは劇作者による創作に過ぎないとみている歴史学者もいます。

治長は幼少の時から淀殿と近い関係にあったため、

あらぬ噂話が広がってしまったようです。

しかし火のないところに煙は立たぬ、

と言いますよね。

淀殿の激しい性格や

秀吉にそれまでに子ができなかったことが、

噂が流れる一因だったとも思えますね。

大野治長の子孫や最後は?

1614年に起こった大坂冬の陣では、

大野治長は豊臣方の中心の一人として籠城戦を指揮しました。

大野治長は徳川方との停戦交渉を行い、

和議を成立させました。

この時に、豊臣方には不利になる

条件も飲まざるを得なかったと言われていますね。

そのためか、城内では停戦に反対する強硬派も多くいました。

和睦後のある夜、治長は強硬派に襲撃されて負傷してしまいます。

1615年の大坂夏の陣では、

初め治長は大坂城本丸の守備を担当。

形勢が不利になるとともに城の外へ出て戦うようになりました。

5月、城外で徳川方と戦って敗れた後、

撤退してきた治長は重傷を負っており、

大阪城本丸へ引き上げて立て籠もることになりました。

治長は最後の策として、

独断で徳川家康の孫で秀頼の正室であった千姫を脱出させ、

彼女を使者として、

家康と秀忠に、秀頼と淀殿の助命を依頼させようとしました。

しかし、家康は孫の願いにためらいを見せたのですが、

千姫の父である徳川秀忠は激怒して助命嘆願を拒否したと言われています。

望みが絶たれたため、

治長らは秀頼とともに大坂城内で自害しました。

長男の治徳も共に自害しているため、子孫は残っていません。

最後まで豊臣家を守るため奮戦した大野治長。

やむを得ず停戦交渉を行ったのに、

味方から恨まれて襲われたのは理不尽な気がします。

また時代の宿命とはいえ、

子孫が残っていないのは、なんとも切ないですね。

大野治長と徳川家康の関係は?

治長と家康の関係は、

敵対関係→友好関係→敵対関係と変化しています。

1599年、治長は豊臣秀頼の警護係の筆頭として抜擢され

側近となりました。

一方、同年9月、行事のために大坂城へ入った徳川家康に対して、

暗殺計画があるとの密告がありました。

その内容は、首謀者が前田利長で、

大野治長らも加担しているというものでした。

家康は警備を厳重にして行事を乗り切ったあと、

計画の関係者の摘発を始めたのです。

10月、治長は罪を問われて下総国(現在の千葉県)に

流罪とされました。

しかし1600年7月、家康は治長と面会し、

その罪を赦しました。

同年に起こった関ヶ原の戦いでは、

治長はなぜか東軍(家康方)に参加。

戦の後は豊臣家への使者を務めたのち、

そのまま大坂に残りました。

1614年、豊臣家の家老であった片桐且元が追放され、

代わって治長が豊臣家重臣となります。

その後、豊臣家と徳川家の対立は決定的なものとなり、

大坂冬の陣に至ります。

最終的には豊臣方として忠誠をつくした治長でしたが、

それまでは情勢に合わせて立場を変え、

うまく生き残っている印象があります。

その治長が最後は秀頼の下で自害したというのは

戦乱の時代に翻弄されたからなのか、

それとも豊臣方としての意志を貫いたのか

と考えられます。

悲しい最後からは、後者を取りたいところです。

大野治長、調べてみると

波乱ある生涯だったことがわかりました。

読んでくださり、ありがとうございました。

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