淡谷のり子さんというと、青いアイシャドウとつけまつ毛、
ビブラートの効いた響く歌声が思い出されます。
同時代の笠置シヅ子さんとはライバルだったのかな?
私が持つ淡谷のり子さんのイメージは、
すでに年老いた大ベテランです。
淡谷のり子さんの娘さんの噂や若い頃、
最後まで歌手として生きた人生を調べました。
淡谷のり子とは?wikiプロフィール
淡谷のり子さん、昭和モダンを代表する歌手として
戦前からご活躍されました。
どんな方だったのか、
ますはプロフィールを見ていきましょう。
淡谷のり子のプロフィール
淡谷のり子(あわやのりこ)
本名:霧島のぶこ(きりしまのぶこ)
生年月日:1907年8月12日
没年月日:1999年9月22日
享年:92歳
出身地:青森県青森市
最終学歴:東洋音楽学校(現東京音楽大学)声楽科を主席で卒業
*入学時はピアノ科だった
歌手デビュー:1930年 久慈浜音頭
代表曲:「ドンニャ・マリキータ」 1935年
「別れのブルース」 1937年
「雨のブルース」1938年
「モダンエイジ」1982年(ディック・ミネ氏とデュエット) 他多数
受賞歴:1971年 第13回日本レコード大賞特別賞
1972年 紫綬褒章
1978年 日本レコード大賞特別賞
1979年 勲四等宝冠章
1983年 芸能功労者表彰1998年 青森市の名誉市民
ウィキペディア
後述しますが、
淡谷のり子さんは、若い頃からその才能を発揮し
歌手として様々なヒットを飛ばします。
しかし、実家が落ちぶれて苦労した事も知られています。
歌手としての活動の傍、
バラエティや各テレビ番組の審査員としての活躍も
目立ちました。
なぜかというと、
辛口コメントをズバズバ言うからでした。
周囲をおもんばかって当たり障りのないことを
話すのを嫌い、
思ったことをズバズバ話すその潔さは
当時の若者にも人気になり、
高齢になってからテレビCM の出番なども増えました。
また、おしゃれがとても好きだったことでも知られています。
私のイメージでは、
厚化粧(失礼)にキラキラ光るドレス、
大きなアクセサリーもつけていらっしゃいました。
まあ、よく光るおばさんという感じだったんですよ。
一説によると、生涯で衣装や宝飾品に費やした金額が
約8億円(昭和の価格で)だったといいます。
まあ、すごいことですよね。
淡谷のり子はブルースの女王
淡谷のり子さんは、ブルースの女王と呼ばれていました。
クラッシックの声楽家出身で
素晴らしいソプラノの持ち主だったとのこと、
学生時代の師である久保田稲子から
徹底的に高音域(ファルセット)を指導され会得しました。
なんと、「10年に一人のソプラノ」という
とても名誉ある評を受けていたんですって。
その頃の歌を聴いてみたいと思いました。
その後、大学を卒業し、流行歌を歌うようになりますが、
1931年にコロムビアレコードへ移籍したことにより
淡谷のり子さんの歌手人生が一気にひらけていきます。
1935年に発表した「ドンニャ・マリキータ」により
日本のシャンソン歌手第1号になりました。
1936年にはハンガリーのシャンソン曲もカバーしたのですが、
その頃、淡谷のりこさんの歌声を聞いた
服部良一さんに声を気に入られて、
淡谷のり子さんのために制作されたのが
名曲「別れのブルース」でした。
この曲は、さすがの私も存じています。
窓を開け〜ればあ〜
と気だるい歌声、、、。
淡谷のり子さんは高音域のソプラノ歌手ですが
なぜかこの歌は低く響くような場面もあります。
それもそのはず、
この曲のイメージを出すためでしょうか・・・
レコーディングの際に淡谷さんは
大切なのどをつぶして臨んだのだそうです。
びっくりですよね。
ある意味プロ根性が強いとでも言えるのでしょうか?
そのため、
ハスキーな響きある声での歌唱となり
お亡くなりになった今でも
覚えているくらいインパクトのある歌声になったのだと思いました。
この後も、
服部良一さんとのコンビで
「雨のブルース」「想い出のブルース」「東京ブルース」など
ヒットを飛ばしました。
実は、淡谷のり子さんはブルースの女王として有名でしたが、
ポップス、シャンソンなど幅広く歌う歌手でもありました。
お亡くなりになった時は
各種新聞やテレビ番組で放映され、
追悼特集も多くつくられたということです。
国民的歌手としての存在感、そして愛される存在だったことが
わかりますね。
淡谷のり子と笠置シヅ子との関係
淡谷のり子さん、笠置シヅ子さん、
それぞれ「ブルースの女王」と「ブギの女王」と
歌の世界において突出した活躍をされたお二人です。
年齢は笠置シヅ子さんの方が
7歳ほど年下だったとのことで、
淡谷のり子さんを先輩として見ていたようです。
二人は共に、
服部良一さんにその才能を見いだされ
多くの曲を提供されていることに加えて、
爆発的なヒット曲も出しています。
そういうところからも
交流はあったのだろうと考えます。
調べてみると、ライバルでもあり友人でもあり、
互いの家を行き来する関係であったようです。
淡谷さんも笠置さんも共に
当時は珍しいシングルマザーとしてお子さんを育てながら
芸能のお仕事をされていました。
淡谷さんが笠置さんのお嬢さんに
「お母さんに感謝しなさい」と
伝えたというエピソードも残っています。
正し、淡谷さんは
辛口コメントで知られている方ですから、
笠置さんの歌に対して辛辣な批評をすることもあったようです。
それでも、何かしら認め合うことがあったのでしょうね。
笠置さんは体力の限界の前に
歌手を退いて女優へと転身をされました。
淡谷さんは、最後まで歌手として人生を全うされました。
そういう意味では、お互いの存在は気になっていただろうなと思います。
淡谷のり子の若い頃
淡谷のり子さん、生まれた時は
青森県の豪商の長女だったそうです。
世が世ならお嬢様ですね。
しかし、不運なことにご実家は1910年の青森大火により消失、
お父様はお店の再興をと思いながらも
結局のところ破産してしまったのだそうです。
それはお父さんの放蕩癖が原因だったとのことで、
お母様は淡谷さんと妹さんを連れて
夫に見切りをつけて上京、
音楽家、あるいは音楽教師になるために
東洋音楽学校に入学したそうなんです。
でも、母親と妹の3人くらしの生活は厳しかったようで、
学校を1年休学してお金を稼ぐことになりました。
その時のアルバイトがなんと、「裸婦モデル」。
画家の前で裸になりポーズをとるあれですね。
画家の中にはその後有名になった
岡田三郎助さんや田口省吾さんなどがいたそうです。
淡谷さんのラフ像を描いたなんて
その後のご活躍を見たら光栄な記憶になりそうですね。
画家の中には淡谷さんのお金を援助する方もいたそうで、
やはり淡谷さんはただものじゃない、
他の人が応援したくなる才能の持ち主だったんだなあと思いました。
その後学校に戻ってからは、
久保田稲子のマンツーマン教育を受け、
その才能を花開くことになります。
十年に一人のソプラノと言われたのもこの時期だったそうです。
歌のために、家族のために
身を粉にして働いた淡谷さんの胆力に
私は、女性ならではの強さだなあと
惚れ惚れしてしまいました。
淡谷のり子の娘は秋元順子ではない!
淡谷のり子さんは一度結婚されています。
1931年にバックバンドでピアニストを務めていた
和田肇さんと結婚されましたが、
1935年に離婚されています。
淡谷さんはお嬢さんを生んでいるのですが
淡谷のり子さんの娘さんを調べると
秋元順子さんというお名前があがります。
秋元順子さんもジャズシンガーですね、
同じ歌手だから、、という理由でその噂が
上がっているようです。
秋元さんが生まれたのは1947年なので
淡谷さんは結婚はされていない時期です。
その父親はディック・ミネ氏とも言われているんですけど
これはどうやら噂に過ぎないようですね。
実際のお嬢さんは、一般人として暮らしているようです。
そして、お嬢さんの父親は中国で死んだと
話していたとのことなんです。
それ以外は、一切話を残していないとのこと、
そのくらいご自身と娘さんのプライベートを
大切にされていたんだなあと思いました。
淡谷のり子の最後、歌手として生き切った
淡谷のり子さんは、1998年にご逝去されましたが、
その少し前まで、歌手として舞台に立ち続けていらっしゃいました。
ご高齢になっても晩年まで毎日の発声練習を
欠かさなかったとのことなんです。
そして、1983年には、
なんと76歳にして同世代のディック・ミネさんと
デュエット曲「モダンエイジ」をレコーディングしています。
これは今でも最高齢記録として残っているそうです。
生涯現役を貫いた方なんだなあと驚きました。
しかし、1993年に脳梗塞を発症してしまいます。
このことにより、
言語や手足の麻痺などが残り体調も悪化してしまったとのこと、
その時の歌を自分でお聞きになり、
これは現役続行は無理、と引退を決めたということでした。
そうはいっても、1996年には人の前に
姿をお見せになります。
そして、その場にいた全員と一緒に歌った
「聞かせてよ愛の言葉よ」が淡谷さんが人前で歌った
最後の曲になったということです。
なんか、このエピソードを知った時
その姿を想像して涙してしまいました。
最後まで歌手としての心を失わないところに
感動したのです。
美輪明宏さんは、淡谷のりこさんの歌声を「ダイアモンド」に例え
絶賛したそうです。
全盛期の歌声を聴いてみたかったなあと思いました。
さらに特筆したいのが
モノマネ芸人のコロッケさんが淡谷のり子さんのモノマネを
していたことです。
淡谷のり子さんが亡くなった後、
しばらくモノマネは封印してやらなかったそうなんですが、
妹さんから、若い世代にも知ってもらいたいと頼まれ、
再びそのモノマネを披露したということがありました。
今では、代わる人のいない大スター
それが淡谷のり子さんでした。
淡谷のり子さんについて調べ、思ったことを書きました。
読んでくださりありがとうございました。
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