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紫式部の父・母・兄弟は誰でどんな人?本名や幼い頃のエピソードは?

光る君へ
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紫式部は源氏物語の作者として有名ですね。

でも、その父親や母親、兄妹については

知らない方も多いと思います。

私も全然気にしたことがなかったので

調べました!

紫式部の父親、母親、兄妹、幼い頃のエピソードについて書いていきます。


紫式部の父親は藤原為時、教養を授けたのは父だった?

紫式部の父親は、藤原為時(ふじわらのためとき)と言います。

平安時代中期(900年代後半から1000年代前半に活躍した

貴族、歌人でもあります。

藤原道長を輩出した藤原一門の中でも

力を持つ藤原北家(ふじわらほっけ)を外しているそうです。

紫式部と藤原道長は強い繋がりがあったとされますが、

先祖を遡ると遠い親戚でもあったんですね。

為時は、貴族の中でも位は高い方ではなく、

国司として地域を回って仕事をしていました。

ただ、文人としての素養が優れていたようで、

師貞親王(後の花山天皇)のそばで

学問を教えたこともありました。

ただ、貴族とはいえ職業的には

地方公務員のような役割だったようで

当時は職により給与も差があったと言われています。

越前国にも派遣された時は

紫式部も連れて行ったとのことです。

このあと紹介しますが、

紫式部の母である為時の妻は

早くに亡くなってしまい

為時が子どもの面倒を見ていたようなんです。

この時代は、夫は通い婚とされていて

子どもは母のところで育てられることが

一般的だった中

父親が自ら赴任先に子を連れて行ったということから

為時は子煩悩な父親だったのではないかと考えられますね。

でも、残されている資料からは

為時はちょっと偏屈ものであったとも

言われています。

本当はどうだったのか興味が湧きますね。

晩年は出家し、その後の消息は不明だとのこと。

それでも、

歌人としての才は認められるものであり、

「ご拾遺和歌集」や「新古今和歌集」に、

藤原為時が詠んだ詩が掲載されています。

紫式部の文学的素養は

為時が息子(紫式部の弟)に漢文や詩を教えていたのを

盗み聞き、盗み見をして学んだとも言われています。

そういう意味でも与えた影響は大きいのだなあと思いました。

紫式部の母親は早くに亡くなった?

紫式部の母親には

はっきりとわかる名前はありません・

当時は、女性が名を持つことは

珍しく、誰かの娘とか妻のような

呼び方をされていました。

紫式部というのも

式部は父為時の官位の式部大丞によるそうです。

元に戻ります。

紫式部の母は、藤原為信女(ふじわらのためのぶのむすめ)と伝わっています。

藤原為信は貴族であり、歌人でもあったそうです。

藤原為時と結婚し、

男の子を1人と女の子を2人産みます。

紫式部は、

2人目の女の子です。

ただ、早く亡くなってしまったそうで

ほとんど記録は残っていないのだそうです。

夫為時が赴任した土地、

播磨地方だったそうですが

こちらで969年頃に長女を、970年頃に紫式部を産みました。

その後、京に戻って、

973年頃に弟である惟規(のぶのり)を産みますが、

その後亡くなったそうなのです。

紫式部はまだ3〜4歳ごろの時ですね。

その後、父と姉に育てられるのです。

母の記憶はうっすらとはありそうですが、

あまり覚えていないのではないかと思います。

源氏物語では、

光源氏をはじめ、母を幼い頃に亡くす人物が

複数登場します。

これは、紫式部が幼い頃に母親を亡くしたことと

関係があるのではないかと推測している人も

多いようです。

紫式部自身は、

娘を一人産み、母となります。

母となった時の心情を想像すると

お子さんへ強い愛情を注いだのではないかと思えます。

そういう意味では

私は、紫式部は母親からも影響を受けていたのだなあと思いました。

紫式部の弟は、藤原惟規、手柄を逃したエピソードとは?

紫式部の弟は、藤原惟規(のぶのり)といいます。

実は、兄なのか弟なのか、

そこら辺は判別しづらいらしいのですが

定説では弟となっています。

この方は、若くして出世しているため

そこそこ優秀な人だったようです。

1011年には、なかなか立派な爵位

従五位下に任じられるのですが、

父親の越後への赴任に同行してしまいます。

そして、その地でお亡くなりになってしまうのです。

若くして、親よりも先に旅立つ息子、

親不孝者と周りの人たちを悲しませたことでしょうね。

この惟規が手柄を逃したエピソードが

式部が残した日記に記されています。

それは、大晦日の夜のこと

一条天皇中宮である彰子の部屋の方から

ただならぬ叫び声が聞こえてきたのだそうです。

紫式部らがおっかなびっくり駆けつけたところ、

2人の女官が見ぐるみを剥がされた状態で

倒れていたとのこと。

強盗が入ったということらしいです。

紫式部は、すぐに警備についているはずの弟を呼んだものの、

その場にはおらず、、、

悪人を退治するとか、

高貴な方をお守りするとか、という

手柄を立てることができなかったんだそうです。

まあ、帰宅してから

偶然そういうことが起きちゃったので

それはしょうがないことなんですけど、

1000年もの間、もったいない弟として

描かれているのは、

ご本人もやりきれないと思いますよね。

紫式部の本名は?

紫式部は名前ではありません。

藤式部という呼び名もあり

一つの肩書きに近い呼び名のようです。

式部というのは、お父様である為時の肩書きから来ています。

紫というのは、一説によると

源氏物語の中の紫の上からきているとも言われています。

では本名はどうなの?

というと

香子という名が上がってきます。

これは、かおるこ、たかこ、こうしとする説があるそうです。

歴史書の中の一説から推測しているとのことなので、

正しいかどうかはいえない仮説でもあるそうです。

また、この名をよしことする読み方もあるんですって。

名前すら、はっきりわからないって

歴史って本当にミステリーだなあって思います。

「源氏物語」は全世界中に知られている

平安文学であるのに

その作者の名が未だはっきりしないというのは

本当に不思議なものですね。

紫式部、幼い頃のエピソードは?

紫式部が幼い頃の有名なエピソードがあります。

それは、父の為時が紫式部に向かって

「お前が男だったらよかったのに」

というようなことを言ったというものです

この話は、

為時が弟の惟規に漢文を教えていた時のことで、

惟規がなかなか暗記できないのに、

こっそり学んでいる姉の紫式部の方が暗唱できてしまったから、、と言われています。

女性は才があっても活躍できない時代だったので、

男であれば、もっと出世できるのに、という

想いが込められているエピソードなんじゃないかなって思います。

紫式部の父親、母親、兄妹について調べてきました。

まだまだ、わからないこともあるので

引き続き調べてみようと思います。

お読みくださりありがとうございます。

「光る君へ」の人物相関図はこちらからお読みいただけます

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