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飛鳥明子のwikiは?松竹学劇部トップスターで桃色争議で退団!?最後は・・・

ブギウギ
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飛鳥明子さんは、

昭和初期に松竹学劇団のトップスターとして活躍されました。

しかし、後述の「桃色争議」に関わったことにより、

才能は開花させることなくその芸能人世を追えています。

飛鳥明子さん、私はリアルでは拝見していませんが、

どんな人か気になったので調べました。


飛鳥明子のwikiプロフィール

飛鳥明子さん、

個人の情報はあまり出ていません。

それは、後述の桃色争議や彼女の人生と関連しているようです。

現在、調べてわかる情報によると、

次のことがわかりました。

1907年にお生まれになりました。

お父様は開業医だったということなので、

この時代でも裕福なご家庭だったのではないかと

想像できますね。

クラッシックバレエの名手として知られているので、

幼い頃からバレエのお稽古を受けていたと思われますね。

学歴は、この時代では

超ハイスペ女子!

高等女学校を卒業されています。

その後、

松竹学劇部に入団し、

クラッシックバレエの才能を見出され、

楽団初期のプリマドンナとして活躍していくのです。

性格的にもとても真面目な努力家だったそうです。

それがわかるエピソードとして、

当時はなかなかバレエシューズが手に入らなかったことから、

爪先に包帯を巻いてバレエの練習をしていたというものがあります。

包帯には血も滲んでいたとのこと、

想像するだけで私は「痛いー」と

叫んでしまいそうです。

でも、その真面目な姿勢が評価されたのも

彼女が活躍の場を手に入れたことから想像できますよね。

その圧倒的な存在感で、

当時入団したばかりの

笠置シヅ子さんも大きな影響を受けたそうです。

しかし、

飛鳥明子さんのスター人生は長くは続きません。

続いて、

その人生に大きく影響した桃色争議とは?

について説明していきます。

飛鳥明子の関わった桃色争議とは?

桃色争議とは、1933(昭和8)年に起きた、

松竹楽劇部員が待遇の改善を求めて行ったストライキに関する

様々な騒動のことです。

松竹は、前年(1932年)に、

浅草で映画活弁士や学士らを

一方的に辞めさせることに成功しています。

そして松竹少女歌劇部に対しても

一部の楽士を解雇し、部員に対しても賃金削減を通告したのです。

これに反旗を翻したのが、

当時トップスターであった水の江滝子を中心とした

歌劇部員たちです。

新聞記者らを集めて、抵抗を宣言したのち、

神奈川県湯河原の旅館に、

230名もの歌劇部員たちが立てこもってしまったのです。

まだ若い女性が、会社を相手に全面的に戦うって

すごいことですよね。

今では信じられないことなので、私はびっくりしました。

さらに、

その火は大阪にも飛ぶのです。

そして、大阪の松竹楽劇部では、

待遇条件の改良要求を会社側に突きつけます。

しかし、それは受け入れられてもらえず、

楽劇員と会社とはきな臭い空気が漂う関係になってしまうのですねー。

そしてとうとう、

飛鳥明子さんを争議団長に、部員たちは

舞台を欠席してしまいます。

その上、笠置シヅ子さんやアーサー美鈴さんらも巻き込み、

約70名の楽劇員たちは

高野山に立てこもって、自らの論理を掲げ、

参拝客たちの肝を抜いたのだそうです。

会社は、初め強硬な態度に出ていたのですが、

世論は、少女たち(しかも有名で人気もあったので)に、

次第に傾いていきます。

それは新聞各紙も同じで、松竹の姿勢に批判を表すようになりました。

さらには、観客動員数も落ち込み、

ライバルと目していた、宝塚少女歌劇団へ、

人気も売り上げも持っていかれる結果となってしまい、

松竹にとっては散々な結末を迎えることとなります。

最終的に、争議団の求める

週休制と最低賃金の設定を松竹側が飲んで、

騒動を終わらせたのだそうです。

つまりは、歌劇員たちの勝利ということです。

ファンの方たちもハラハラしながら見守ったことでしょうね。

私も推しがいるので、こういう状況になったら

推しに絶対味方すると思います。

世間を味方につけて勝利した彼女たち、

拍手喝采を送りたいですね。

飛鳥明子は桃色争議後はどうなった?

歌劇員たちが、要求を会社に了承させたことで、

勝利する形で終わった桃色争議。

しかし、飛鳥明子さんは、

争議団長として舞台に穴をあけた責任をとり、

楽団を退団します。

辞めさせられたのか、

ご本人が自ら身を引いたのか、

そこらへんはわかりません。

でも、先述のように、

真面目で努力家なリーダーであった飛鳥さんなので、

歌劇団や他の団員のことを考えて

自ら身を引いたのではないかなと思います。

もしかしたら、

こういう騒動に嫌になったのかもしれませんね。

だって、彼女は芸を表現したかったのですから。

時代とはいえ、

騒動に巻き込まれて夢を途中で諦めたのであれば

こんなに悲しい幕引きはありませんね。

飛鳥明子、最後は・・・

飛鳥明子さんは、1933年の夏に

桃色争議の責任をとり松竹歌劇団を退団します。

そして、ご結婚されたとのことです。

お相手のことや、お子さんのことは

まだわからないので

ここはわかり次第追記いたします。

結婚後は振付師として、

松竹歌劇員の後輩を指導もしていたそうです。

しかし、1937年、飛鳥明子さんは

病にかかり命を落としてしまいます。

享年29歳ということです。

若くしてトップスターとなり、

人気を博すものの、争議に巻き込まれて退団することになり、

早逝するという最後を迎えたのですね。

短い人生、生き切った感がありますが、

本当はもっと活躍の場も

それを望む人の思いもあったことと思います。

激動の時代を文字通り駆け抜けた飛鳥明子さん。

その人生を知り、ちょっと涙しました。

読んでくださりありがとうございます。

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