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藤原公任と紫式部、藤原道長との関係!和歌の才能に優れた光源氏?

光る君へ
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平安時代の中期、藤原道長と同じ年に生まれ、

政治家・文化人として活躍した藤原公任(ふじわらのきんとう)。

同時期に活躍した道長との関係は、

どのようなものだったのでしょうか?

また、大変なイケメンと言われ、光源氏のモデルとも言われています。

その噂の真相も掘り進めてみました!


藤原公任(ふじわらのきんとう)とは?和歌の才能に優れた三十六歌仙

藤原公任は、ふじわらのきんとう と読みます。

政治家としては途中で出世が遅れてしまいますが、

和歌の他、漢詩、管弦(かんげん:音楽のこと)などの芸術面で

たぐいまれなる才能を発揮しました。

ちなみに、百人一首には

藤原公任の句が掲載されています。

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

百人一首

これは聞いたことがありますか?

公任が集め、まとめた歌集には『大納言公任集(だいなごんきんとうしゅう)』、

公任が私的にまとめた『金玉和歌集(きんぎょくわかしゅう)』、

歌論書、歌について研究したり論じたりしたものとして、

『新撰髄脳(しんせんずいのう)』『和歌九品(わかくぼん)』などがあります。

さらに、勅撰歌人(ちょくせんかじん:意味は天皇が直接指名した優れた歌人)として

『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以下の勅撰和歌集に88首が選ばれています。

また政治家引退後に書いたと見られる

有職故実(朝廷で仕事をするときの作法やマナー)の書『北山抄(ほくざんしょう)』は、

平安時代中期における朝廷の儀式・年中行事の詳しいことが分かる貴重な史料です。

では、三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)という言葉を聞いたことがありますか?

これは、藤原公任が編さんした和歌集である、『三十六人撰』(さんじゅうろくにんせん)に

載っている和歌の名人36人の総称です。

そのメンバーには、

小野小町、柿本人麻呂、紀貫之、大伴家持、在原業平など、

国語や歴史の教科書に掲載されている人が沢山います。

和歌を中心に様々な方面で業績を残した藤原公任。

その姿はまさしく平安時代版・総合アーティスト

と言っても過言ではないでしょう。

これでイケメンなんですから

相当モテたことでしょうね。

続いて、光源氏のモデル説について解説します!

藤原公任と紫式部の関係、光源氏のモデルって本当?

藤原公任は、朝廷に仕える公卿という立場にあり、

紫式部は天皇の后に仕える女官でした。

その立場上、

二人の接点はほとんどなかったと思われます。

同じ藤原氏の出身ではあるものの、血縁としてはかなり遠い関係にあり、

幼少期に知り合いであったとか、家が近所だったなどの話も残っていません。

ただし、紫式部が残した「紫式部日記」には、

藤原公任が登場しています。

あるエピソードとして描かれているのですが

宮中で宴が催された時に、

藤原公任が酔って、紫式部に

「若紫はおいでですか?」と声をかけたというものです。

ここから、源氏物語の若紫を連想し、

光源氏のモデルでは?という説が生まれたようです。

もう一つ、興味深いなと思った考察が

「我が、紫」と声をかけたというもの。

そこから、二人は恋仲だったのでは?という話も生まれたようです。

とはいえ、

実際に二人の間に何かあったという記録もないし、

光源氏が公任という証拠もありません。

藤原公任が光源氏のモデルだったとする説は、

ほとんどないと言えるでしょう。

光源氏のモデルとして有力視されているのは、

天皇の皇子から臣籍降下し、公卿となった源高明、同じく源融、

また貴族として最高の地位に君臨した藤原道長などが挙げられています。

文化人として有名だったはずの藤原公任ですが、

光源氏のモデルではなかったようです。

ただし、和歌の達人ということで、

当時、宮中の女性にとっては憧れの人という感覚はあったかもしれませんね。

藤原公任と藤原道長の関係は?

藤原公任と藤原道長は、はとこ同士にあたります。

同い年であったこともあり、

双方が中年になるまでは互いにライバル関係にありました。

公任の父は関白・藤原頼忠であったため、

公任自身も若いころは順調に出世していきました。

しかし、一条天皇の即位後は道長の父・兼家が摂政となり政権を掌握。

このため道長が急速に昇進していき、公任の位を追い越してしまいます。

道長の立場が圧倒的に優位になるにつれ、

公任が道長にすり寄ることが多くなり、

ついに1012年、自身の長女を道長の次男・藤原教通に嫁がせることに成功します。

公任はこの結婚がよほど自慢であったようで、

道長に反発心を持つ親戚の藤原実資に対して延々と自慢話をし、

実資を閉口させたほどなのです。

道長と縁戚関係になることが

そんなにも自慢になることとは

道長の権勢はいかほどのものだったのかを

知ることができますね。

名門の家に生まれ、本人も才能に恵まれた公任。

当然プライドも高く、出世への熱意は強かったはずですが、

自分を追い越していったライバルの道長と積極的に仲良くなった事実をみると、

現実主義者だったとも言えますし、

政治以外のことに強い関心を持っていたとも考えられますね。

なかなかに、面白いお方ですね。

藤原公任、出家の理由は愛娘の死

1021年、左大臣・藤原顕光の死去により、

大臣の席が2つ空きました。

当時の公任は権大納言の地位にあり、

大臣へ出世する可能性がありましたが、

格下であった婿の藤原教通が内大臣に昇進します。

さらに大納言であった藤原実資が右大臣に昇った一方で、

公任は大臣はおろか大納言に昇進することすら叶わず、

昇格の限界へ来ていることが明らかになりました。

さらに、1023年に次女を、

翌1024年に長女(藤原教通の妻)を次々と亡くしてしまいます。

公任は二人の娘の死によって精神的に大きな打撃を受けたらしく、

この頃より朝廷に出勤しなくなり、

ついには、同年12月、権大納言の地位も辞任してしまいます。

そして、1026年、60歳になった公任は

正月4日に洛北の解脱寺で出家しました。

娘二人を亡くしてから意気消沈し、仕事をやる気すら失って出家した様子から、

公任が娘思いの愛情深い父親であったことがうかがえます。

出世よりも、娘への想いが強い公任、

なんだか共感したくなりました。

藤原公任の死因、最期は?

出家した公任は、

解脱寺から北に少し離れた平地に山荘を営んで居住しました。

公任の出家はまもなく都に知れ渡りますが、

その反響は大きかったようです。

すぐに既に出家していた道長から法衣1セットが贈られると、

婿の教通や子の定頼を始め大勢の人々が次々と公任を訪ねてきました。

公任はその後も俗世間と離れた生活を送りますが、

源経頼の依頼を受けて有職故実を教授するなど、精力的に活動しました。

しかし、1040年の年末、急に病にかかって10日ほど患ったのち、

翌1041年1月1日、76歳で亡くなりました。

死因はダニによる感染症でした。

当時、環境の衛生度は、

今とは比べ物のないほどお粗末です。

感染症により、命を落とす人も少なくなかったのですね。

出家してからは都の郊外で悠々自適な生活を送った公任。

ライバルの道長が62歳で亡くなったことと比べると、

近東の76歳は驚異的な長寿と思えます。

76歳という長寿まで生き延びたことを踏まえると、

晩年の公任はストレスの少ない、幸せな生活を送っていたのかも知れません。

人間の一生は、死ぬまでわからないものですね。

読んでくださり、ありがとうございました。

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