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花山天皇(師貞親王)出家の理由やエピソード、死因は?

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花山天皇、名前は綺麗ですが、

実はエグいエピソードをたくさんもった、

平安時代初期の天皇です。

愛する妻を失った心の傷につけこまれ、

家臣に騙されて出家することにもなってしまいます。

ここでは、花山天皇その出家に至る経緯や、

出家後の暮らしなど、その人物像をご紹介します。


師貞親王(花山天皇)とは?生まれ、親、即位・退位の年など

師貞親王(後の花山天皇)は、

968年に、冷泉天皇の第一皇子として誕生しました。

母は、摂政・太政大臣藤原伊尹(これただ)の娘・女御懐子です。

生後10か月で皇太子となり、984年、16歳の時に即位しました。

このときすでに伊尹が亡くなっており、有力な後ろ盾がいなかったので、

伊尹の子で、天皇の伯父にあたる藤原義懐(よしちか)に補佐されて政治を行いました。

しかし深く愛していた女御・藤原忯子(よしこ)が17歳の若さで亡くなると、

出家を考えるようになり、義懐の説得もむなしく986年に退位して出家してしまいました。

妻を失ったショックから立ち直れず、政治を投げ出し、

発作的に出家してしまうところから見て、

花山天皇は精神年齢が幼く、

気ままな性格だったのかも知れません。

しかも、この出家には黒幕がいた、、とのこと。

それは次に続きます。

花山天皇の出家は道兼の陰謀!?寛和の変とは

985年、花山天皇が深く愛していた妻の忯子が、懐妊中に急死してしまいました。

天皇はこのことに深いショックを受け、出家を考えるようになります。

藤原義懐は、天皇の性格から考えて、

出家願望は一時的なものだと考え、思いとどまるよう説得しました。

しかし、ここで思わぬ邪魔が入ります。

自分の孫にあたる懐仁親王の即位を狙っていた藤原兼家が、

当時蔵人(天皇の側近の事務方)を務めていた息子の道兼に策を教えます。

道兼はその策にしたがい、

986年6月、天皇に

「出家なさって忯子様の菩提を弔いましょう」

「私も一緒に出家いたします」

と説得し、天皇を極秘裏に内裏から連れ出します。

天皇は道中で何度か思い直し、内裏に戻ろうと言い出しますが、

道兼がウソ泣きをして押しとどめ、寺まで案内しました。

ここで天皇は剃髪して出家しますが、

道兼は「実家に事情を説明してきます」と言って寺を出て、

そのまま戻りませんでした。

ここで天皇は自分が騙されたと初めて気づきますが、時すでに遅し。

宮中ではすでに兼家らによって、一条天皇への譲位の手続きが終わっていました。

この事変を寛和の変と呼びます。

家臣の口車に乗ってあっさりと政務を投げ出して

出家してしまった天皇は浅はかだと言えますが、

それよりもこの計画を思いついた藤原兼家の策略能力の高さ、

道兼の実行力の高さに驚かされます。

この藤原兼家が、その後絶大な権力を振るった

藤原道長の父です。

天皇と縁戚関係を結ぶことで

朝廷での権力を強める手法は

この時代の常套手段だったようですね。

私は、花山天皇が簡単に騙されてしまったことは

残念なことと思うのですが、

家臣の口車にホイホイ乗っちゃうような天皇だと、

その後の政治も混乱しただろうなあという思いの方が強いです。

この後のエピソードにも驚かされますが、

それからしても、なるべくしてなったこととも思えちゃうのです。

花山天皇のエピソードは多い!自由奔放な人物だった?

花山天皇は気まま勝手なふるまいが多かったと、

複数の書物に記録されています。

天皇に即位する前、玉座に美しい女官を引き入れ、

男女の行為に及んだという話も伝わっています。

これは、今でいうセクハラです!!

断じて許せない行為と憤慨してしまいました。

また、

*即位式において王冠が重いと言い出してこれを脱ぎ捨てた、

*清涼殿の小さな庭で馬を乗り回そうとした、

という逸話もあります。

クスッと笑えるエピソードも

多いのですね。

出家した後も女性好きで知られ、

同じ時期に母娘の両方を愛人として囲い、

同じ時期に双方が男児を生んでいます。

ただしこれらの逸話は、

子孫を天皇として継承することができなかった冷泉系の天皇の印象を貶めるため、

故意に作られたものである可能性が高いとする見解もあります。

そう思うと、勝手に印象をつくられてしまうのは

甚だやりきれませんよね。

噂の真偽は定かではありませんが、

火のないところに煙は立たぬともいいます。

そう考えると、花山天皇は相当な自由人だったのかなあと思うところです。

花山天皇の最後、死因は?

花山天皇の出家後の有名な事件としては、

996年、花山法皇29歳のとき、

内大臣・藤原伊周・隆家兄弟に矢で射られた花山法皇襲撃事件があります。

きっかけは同年1月半ば、

伊周が通っていた藤原為光の娘の三の君と同じ屋敷に住む四の君に

花山法皇が通いだしたことです。

それを伊周は、法皇が自分の相手の三の君を横取りしたのだと誤解し、

弟の隆家に相談します。

隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、

法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまいます。

法皇は世間体の悪さと恐怖のあまり口をつぐんでいましたが、

事件の噂はあっという間に広がり、

それを藤原道長に利用される形で、

翌月に伊周・隆家はそれぞれ左遷されました。

これを長徳の変といいます。

利用する道長も道長ですが、

正直いうと、あまりにもトラブルメーカーだなって気もしています。

1008年2月、法皇は40歳の若さで亡くなりました。

死因ははっきりしませんが、悪性腫瘍によるものと考えられています。

数々の逸話を残した、自由奔放な花山天皇も

病には勝てなかったということでしょうね。

短い人生を思いっきり、自分の好きなように生きた人ともいえますね。

読んでくださり、ありがとうございました。

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