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藤原詮子と紫式部の関係、天皇の母でも中宮になれなかった理由や最期も

光る君へ
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天皇の母、国母として絶大な影響力をもち、

弟・藤原道長の出世に大きなインパクトを与えた藤原詮子。

なんで、後の天皇を産んだのに、

正式な妃として認められなかったのか?

また政治にも口を挟むようになったのかは、

同じ女性として、大いに気になるところなんです。

この記事では、彼女と周囲との関係性や、

人生の軌跡について迫ります。


藤原詮子(せんし)は一条天皇の母で初の女院

藤原詮子(せんし、あきこ、とも読みます)は、962年、関白・藤原兼家の次女として生まれました。

成長してから円融天皇の后(女御)となり、

第一皇子懐仁親王(のちの一条天皇)を生みました。

その一条天皇が即位してから急速に権勢を強め、

991年の出家の際に「東三条院」の院号を贈られ、

日本初の女院となりました。

女院とは、

・三后(亡くなった天皇の后であった女性)

・准后(天皇の生母と同等の地位を与えられた女性)

・女御(天皇の后)・内親王(天皇の娘)などで

特に院号を与えられた人の事を指し、

上皇に準ずる待遇を受けました。

要するに、「亡くなった天皇の関係者のうち、女性で特に偉い人」という事になります。

*この説明の方がわかりやすいですね!

我が国初の女院として、強い発言力を持った詮子。

弟の道長とともに、藤原氏の絶頂期を象徴する存在であったと言えるでしょう。

この、存在感だけでも憧れますわ。

 

藤原詮子が円融天皇の中宮になれなかった理由は?

天皇の后にはいくつか位がありました。

位の高い順に、皇后、中宮、女御、更衣の4段階でした。

このうち特に皇后と中宮は、天皇の正妻として扱われていました。

詮子は上から3番目の女御の地位にあり、

円融天皇の在位中に中宮にはなれませんでした。

詮子が中宮になれなかった理由は主に二つあります。

一つ目は、父親の地位です。

詮子が円融天皇の女御であった時の関白は、親類筋の藤原頼忠であり、

その娘の遵子が円融天皇の中宮として存在していました。

このとき詮子の父兼家の地位は、頼忠ほど高くはなかったため、

遵子が優先的に中宮になれたものと思われます。

父親の格で、嫁の格も変わるのか・・・

なんだか複雑な気分ですね。

当時の身分制度の厳格さがうかがえる出来事ですね。

もう一つの理由は、天皇の気持ちです。

父親の地位にかかわらず、

天皇がより愛している后の方が先に出世するという側面もありましたので、

円融天皇は詮子よりも遵子をより深く愛していたのかもしれません。

う〜ん、そうなれば仕方ないのか、、。

あの人は、私よりも彼女を選んだのね、、と

袖を絞って泣いちゃいそうですが、

それは仕方ないこと、逆に諦めもつきそうです。

天皇の后は平等に扱われていたわけではなく、いくつかの複雑な事情によって、

それぞれの地位が決まっていたようです。

この時代の厳格な出世レースは、女性にも存在していたということですね。

嫁としては、勝てなかったけど、

その悔しさも女院としての活躍に生かされたのかもしれないですね。

藤原詮子と紫式部の関係は?

紫式部は、一条天皇の中宮であった彰子のお付きの女官であり、

両者はあまり近しい関係ではなかったように思われます。

詮子から見ると、

「息子の嫁の家来の女性」という感覚であり、

単なる顔見知りとして、数回言葉を交わした程度の関係性であった可能性が高いです。

当時の高貴な女性は直接話をする機会が少なく、

お付きの女官を通してやり取りすることが普通だったため、

詮子と紫式部が言葉を交わしたり、

親睦を深める機会は殆んどなかったと考えられます。

史実としては関係の薄かった詮子と紫式部。

大河ドラマ「光る君へ」では二人の様子はどのように描かれるのか、楽しみですね。

あまり交流がないにせよ、あの時代にあの場所で、

自身のキャリアを磨いた女性として興味深いものがあります。

藤原詮子の最期、死因は?

1002年2月、詮子は院の別当を務めていた藤原行成の屋敷にて亡くなりました。

享年は50歳でした。

もっと長生きと思っていたので意外です。

お墓は、京都郊外・宇治木幡の藤原一族の墓所のうち、

宇治陵に葬られました。

死因は分かっていません。

なお、『大鏡』や『栄花物語』という書物には、

葬儀の際に詮子の弟・道長が遺骨を抱いて持つ場面が描かれていますが、

これは創作であり、

実際には骨を抱いていたのは詮子の兄道兼の息子、つまり甥の兼隆です。

気になったのでついでに調べたのですが、

この兼隆は、乱暴ものとして知られる一方、

紫式部の娘賢子とも婚姻関係があったようです。

詮子との関係はよくわかりませんでした。

では、道長がどうであったかというと、

道長の日記『御堂関白記』によれば、

道長が親族の供養を行ったのは、

7月2日(父・兼家)、1月21日(母・時姫)の法要以外には

12月22日の詮子の法要のみであることが確認できます。

ここからは、道長が詮子の供養を両親と同じように行っていた事を知ることができますね。

弟・道長が父母と同等に詮子の供養も毎年行っていたことから、

いかに道長と詮子の姉弟仲が良かったかがうかがい知れるというものです。

国母であり、我が国初の女院にして、

藤原道長を権力の場への後押しした藤原詮子。

この生涯を調べたことで、

藤原詮子への興味が倍増しました。

めっちゃかっこいい、自立した女性だったんだろうなあ〜。

読んでくださり、ありがとうございました。

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