美空ひばりさんは昭和歌謡界の大スター、女王と言われた方です。
七色の声を出し、その歌唱力で絶大な人気を誇りました。
私は美空ひばりさんの晩年を拝見していますし、
今でも懐メロの定番として登場する姿に、その圧倒的な存在感を感じています。
その美空ひばりさんは、笠置シヅ子さんとは不仲だったという説がありました。
そこで、その理由やひばりさんの結婚、最後などを調べてまとめました。
美空ひばりと笠置シヅ子は不仲だった?
美空ひばりさんは、
笠置シヅ子さんの東京ブギウギの歌真似をして
有名になったことが知られていますね。
そんなところが不仲の理由だったのでしょうか?
調べてみたら、様々な確執が合ったことがわかりました。
その前に、美空ひばりさんの簡単なプロフィールも紹介します。
美空ひばりとは?wikiプロフィール
それでは、超簡単なひばりさんのプロフィールです。
美空ひばり
本名:加藤 和枝 (かとう かずえ)
生年月日 昭和12(1937)年5月29日
没年月日 平成元(1989)年6月24日
出身 神奈川県横浜市
最終学歴 精華学園女子高等学校(現在の東海大学附属市原望洋高等学校)卒業
身長 155cm
デビュー曲 「河童ブギウギ」1949年
代表曲
「悲しき口笛」1949年
「お祭りマンボ」1952年
「ひばりのマドロスさん」1954年
「柔」1964年
「悲しい酒」1966年
「真赤な太陽」1967年
「愛燦燦」1986年
「川の流れのように」1989年 他多数
wikipedeiaより
美空ひばりと笠置シヅ子、不仲の理由は
実は、美空ひばりさんと笠置シヅ子さんの
不仲説は作られたものではないか
という見方があります。
不仲の要因と言われていることとして
2つあります。
1つは、1949年に、
笠置シヅ子さんの新曲「ヘイヘイ・ブギ」を美空ひばりさんに
歌わせなかったという事件です。
これは、日劇のレビュー「ラブパレード」に出演する美空ひばりさんが
「ヘイヘイ・ブギ」を歌う予定でいたところ、
笠置シヅ子さん側から、本番前に歌うことは禁じられ、
曲変更を余儀なくされたということです。
ただし、これには、
本番前というのもありますが、
自分の新曲を違う歌手が先に公けの場で歌うことを
懸念したということからすると、
N Gを出すのももっともなことなのではないかと思います。
もう1つは、1950年のハワイ巡業に起きた事件です。
笠置シヅ子さんと服部良一さんがハワイ巡業を
予定していた時のこと、
その直前に美空ひばりさんも
ハワイの知り合いの招きにより急遽公演をすることになったそうです。
その時に、笠置シヅ子さんの曲を歌おうと考えていたそうですが、
まだ、笠置シヅ子さんがハワイで歌う前に
美空ひばりさんが歌ってしまったら、
笠置さんが美空ひばりさんの真似をしたことになってしまいます。
それにより、笠置さんの歌を歌わないようにと
連絡をしたのだそうです。
結果的に、持ち歌が少なかった美空ひばりさんは
笠置シヅ子さんの歌も歌ったようなんですけど、
それを確執と見る人もいるようです。
この点について、笠置さんたちが
美空ひばりさんに、何か意見を言ったということはないそうです。
そう考えると、
これも真っ当な理由ではないかと考えられますね。
当時の美空ひばりさんは、まだ13歳です。
そんな時代から、大舞台に立っていたというのも驚きですね。
この確執の裏には、ステージママといわれた
ひばりさんのお母様の存在もあったみたいですね。
娘が不憫に思って、変な噂を流すということも
あっても不思議はないですからね。
また、当時のマスコミも面白いように
煽り立てたということもありますね。
ほんとーに、マスコミうざいです。
不仲を噂されたようですが、
美空ひばりさんは笠置シヅ子さんを尊敬していたそうです。
引き続き、お二人の関係に迫っていきましょう。
美空ひばりと笠置シヅ子の出会いは?
美空ひばりさんは、小さい頃から歌が上手い少女として
その名を轟かせていました。
当時は、加藤和枝さんと本名を名乗っていました。
二人の出会いは、1948(昭和23)年といわれています。
横浜国際劇場のイベントに出演した笠置シヅ子さんは
東京ブギウギがヒット中の人気歌手でした。
美空ひばりさんは、まだ11歳という幼さにも関わらず、
すでに、笠置シヅ子さんの東京ブギウギを真似して歌い、
話題の少女歌手とになっていました。
この劇場で初めて対面し、共演もしたそうです。
まだ、歌手ではなかったひばりさんを
笠置シヅ子さんは楽屋に入れて可愛がったということです。
美空ひばりさんから見たら、
憧れの大スター、益々ファンになったでしょうね。
その後、
美空ひばりさんは、ベビー笠置と呼ばれ、
大々的に売り出されていきます。
先に書いた「ヘイヘイ・ブギ」禁止事件や
ハワイ巡業での事件は
この出会いの後に起こっています。
美空ひばりと笠置シヅ子は和解していた
美空ひばりさんと笠置シヅ子さん、
本当に不仲だったのかはよくわかりません。
しかし、2回のブギ禁止事件から
周囲もきな臭いものを感じていたかもしれないですね。
実は、お二人は同じレコード会社に
所属していたそうです。
それでも、この事件が尾を引いていたようで
共演の機会はなかったそう。
その状況をよくないと感じたのでしょうね。
そもそも、禁止された歌を歌ってしまった
美空ひばりさん側としては、
謝罪をすべきと考えたようで
公演を強行したマネージャーが
曲の権利を持つ服部良一さんに謝罪をしました。
1951年、ようやく2人が共演を果たし、
和解の成立をアピールします。
NHKの歌謡番組「今週の明星」で
2人揃って仲良く手を繋いで出演しました。
美空ひばりさんにとっても
いくら笠置シヅ子さんの真似をしたからといって
いつまでもそのイメージでいるのは
厳しいですよね。
美空ひばりの結婚相手は小林旭
美空ひばりさんは、一度だけ結婚しています。
そのお相手は、映画界の大スター小林旭さんです。
1962年に、いきなり婚約を発表して
世間を驚かせた美空ひばりさんと小林旭さん。
しかし、その結婚生活は
1年7ヶ月でピリオドを打つことになり
お二人は離婚してしまいます。
お二人の出会いは、週刊誌が企画した対談の場でした。
そこから交際へと発展し、
ひばりさんが小林旭さんへ結婚を迫ったようですね。
幼い頃から歌手としての人生を生きてきたひばりさん、
普通の女の子のように恋愛するチャンスも
ままならなかったのではないかと思います。
小林旭さんは、断れなかった、、という意の言葉を残しています。
この結婚には、ひばりさんの母親である喜美枝さんが
強く反対をしていて、
「人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと
人生で一番幸せだったのは小林と離婚したこと」
と公言もしていたほどでしたね。
小林旭さんは、後に、
ひばりさんはよき妻になろうとしていた、と述べています。
でも、入籍はしていなかったのだそうです。
それは、母親の喜美枝さんが、
不動産処分の問題を理由に入籍を拒んだからということで、
戸籍上は美空ひばりさんは独身のままなんですよ。
お二人の結婚生活には、
母の喜美枝さんや周囲の関係者の介入があったり、
ひばりさん自身が歌を辞めて家庭に入る決心がつかなかったり
ということもありました。
結果として離婚をするのですが、
記者会見は別々に行ったそうです。
小林旭さんからは、
「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」
「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」
ウィキペディアより
と述べたそうです。
ひばりさんからは
「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」
「自分が幸せになる道を選んだ」
「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」
「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」
Wikipediaより
と述べたそうです。
スター同士の結婚、今であればもう少し
上手い方法もあったかもしれませんが、
あの時代ではお互いの才能を活かしつつ結婚生活を続けることは
難しかったのだろうなあと思いました。
美空ひばりの子供は養子
美空ひばりさんと小林旭さんの間には
お子さんはいらっしゃいませんでした。
ひばりさんは甥である加藤和也さんを
養子縁組をして自分の息子として育ててきました。
加藤和也さんは、1971年に
美空ひばりさんの実弟である加藤てつやさんと
歌手の円山鈴子さんとの間に生まれました。
加藤てつやさんも1957年に歌手としてデビューしますが
パッとしなかったんでしょうね、1962年に引退されています。
その後、なんと山口組系の暴力団員になってしまいました。
賭博や暴行関連の容疑で数回の逮捕歴もあります。
このことは、美空ひばりさんの芸能活動にも
影響を与えていたようです。
しかし、一番影響を受けたのが
加藤和也さんでしょうね。
実のご両親は、わずか10ヶ月で離婚してしまったとのこと、
それからひばりさんが親として和也さんを育ててきたのです。
私は、ひばりさんの晩年を見てきたので、
ひばりさんのそばにはいつも和也さんがいたことを
記憶しています。
ひばりさんが亡くなった後は、
ひばりさんが残した歌や資料の数々を保存したり
展示したりする活動、
マルッと言うと、美空ひばり という存在を
後世に伝えるお役目をされていますね。
和也さんは、ご結婚されているものの
お子さんは作らないと言っているそうです。
自分の子に美空ひばりを守る仕事をやらせることを
危惧しているようにも見えます。
ひばりさんと和也さんは
実の親子ではないけれど
とても強い絆で結ばれているのだなあと
改めて思いました。
美空ひばりの死因はガンではない
美空ひばりさんは、1989年6月24日にお亡くなりになります。
享年は52歳、早すぎる死でした。
当時のこともうっすらと覚えています。
ご葬儀には有名人だけでなく
一般の方も会場に足を運び
とても大々的に催されていました。
病気だったことは知っていましたけど
詳しい病名はそういえば知らなかったなあと思い
調べてみました。
驚くことに、美空ひばりさんは、
たくさんの病、不調を抱えながら
晩年はステージに立っていらしたのです。
しかも、52歳という若さで
これだけの病を抱えていたのか、、、と
とてもびっくりしました。
直接の死因となったのは、特発性過眠症間質肺炎による呼吸不全です。
しかしそれまでに、
1987年に重度の慢性肝炎と炉湯川特発性大腿骨頭壊死症のため
3ヶ月間半も入院することになります。
その前の数年間は、肉親や親しい方達を
次々と喪い、悲嘆に暮れる日々だったそうで、
その中でお酒やタバコの量が増えていったことも
体調を悪化させる原因となっていたようです。
退院したのちに、復活したとは見えたものの
実は全快とは程遠い状態で、
あの伝説となっている1988年の「不死鳥コンサート」は、
楽屋がさながら病室のようであったそうです。
通常であれば、歩くことも歌うこともままならない体調で
39曲を歌い終えた美空ひばりさん、
それは本当に命を削ってのコンサートだったんですね。
1989年、命の危機と紙一重の状態で
コンサートを続けてきた美空ひばりさんも
ついにその舞台を降りなければならない状態にまでなってしまいました。
そうして、再入院。
入院中に52歳の誕生日を迎えたものの、
病状は回復することなく最後の日へと向かっていきました。
子どもの頃から歌い続け、
歌が命とまで言っていた美空ひばりさん。
身体を酷使しすぎたのかもしれないですね。
それもご自身が生きる道と進まれてきたと思うので、
短いけれど太く豊かな人生だったのだろうなあと思います。
亡くなってから30年以上経っても
まだその栄光を覚えている方も多いです。
読んでくださり、ありがとうございました。
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