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阿茶の局の子ども、性格、最後は秀忠の母代わりも務めた家康の側室の生涯

どうする家康
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徳川家康の側室の中でも、特に家康から寵愛され、

正室並みの待遇を受けた阿茶の局。

今回は彼女と家康の間に子供はいたのか、

性格はどうだったのかなど、その生涯についてご紹介します。

同じ女性として、パートナーと信頼関係を作りながら

自分らしく生きた阿茶の局の生涯に興味津々です!


阿茶の局は後家から家康の側室へ

阿茶の局は1554年3月、甲斐国(現在の山梨県)を治めていた

武田家の家臣・飯田直政の娘として甲府で生まれました。

初めの名を須和といい、19歳の時に、

武田信玄の八男である一条信龍の家臣であった神尾忠重に嫁ぎ、

神尾守世・神尾守繫の二男を設けました。

しかし、夫・忠重は1577年7月に亡くなってしまいます。

生活が貧しくなった須和は子供を連れて

浜松城下で商売を始めて頭角を現して成功。

浜松城内に出入りを許されるまでになります。

1579年、須和が24歳の時、

徳川家康は浜松城内で偶然須和を見かけて気に入り、

側室としました。

その後須和は、「阿茶の局」と名乗り始めます。

夫を失った女性が

一人で子供を養育するのが困難だった時代にもかかわらず、

自分で商売を始めて繁盛させ、

家康の側室まで上り詰めるというシンデレラストーリー!

これを成功させたことから、

阿茶の局が才ある魅力的な人物であったことが想像できますね。

ますます、好きになりそうです!

阿茶の局には子どもはいた?

阿茶の局と徳川家康の間には、子供はいません。

阿茶の局は数多くいた側室の中でも

才色兼備で、武士のたしなみである馬術や弓術にも長けていました。

家康は阿茶の局を寵愛し、数々の戦場に連れて行きました。

家康は1584年、

小牧・長久手の戦いにも阿茶の局を連れて行きましたが、

家康の子を身ごもっていた阿茶局は現地で流産してしまいます。

さらに、その後遺症で子供を産めない体になってしまいました。

これは、女性にとっては辛く悲しい出来事です。

それを知ってか知らずか、家康も何か考えたのかもしれません。

それ以後も阿茶の局は家康に見捨てられることはなく、

逆に数々の仕事を任され、

徳川家の中でも重要な役割を務める事になります。

子供を産めない体になってしまったことは

ほんとうーーーに悲しい出来事ですが、

その後も変わらず家康から寵愛を受け続けたことは不幸中の幸いであり、

いかに阿茶の局が他には変え難い人物であったかが分かりますね。

阿茶の局は秀忠の母代わり

徳川家康には20人ほどの側室がいましたが、

正室であった築山殿、

家康の三男である秀忠の実母であった西郷の局が亡くなった後は、

阿茶の局を最も信頼し、重要な役割を任せるようになります。

1589年、家康は西郷の局が亡くなったあと、

阿茶の局に秀忠と、

その弟で同じく西郷の局を母とする松平忠吉の養育係を任せました。

特に秀忠は、阿茶の局を実の母のように慕って信頼したようです。

阿茶の局は聡明であったため、

奥向きの諸事一切を家康より任されるようになり、

家康と2代将軍・秀忠に顔を突き合わせて物を言える

唯一の女性となっていきました。

1614年に起こった大阪冬の陣では、

阿茶の局は徳川方の代表を任され、豊臣方と停戦の交渉を行いました。

女性に一人前の人権が与えられていなかった時代に、

戦の停戦交渉という命がけの仕事を任されていた阿茶の局は、

尋常ではない才覚と胆力の持ち主であったといえるでしょうね。

私は、ドラマで阿茶の局と北政所(ねね)の対決を

息を呑んで見た記憶があります。

阿茶の局の最後、お墓はどこ?

1616年に徳川家康が病にかかった際は、阿茶の局に、

「江戸に行って残された秀忠を助けるように」と頼んだとされています。

同年に家康が亡くなると、江戸城の敷地内に屋敷を用意され、

また300石の土地を与えられ、「雲光院」と名乗りました。

1620年、秀忠の娘・徳川和子(かずこ)が後水尾天皇の后として入内した際は、

守役として付き添うという大役を任されます。

その功績により天皇から官位を賜りました。

その後、阿茶の局は、1637年に83歳で亡くなり、

現在の東京都江東区にある浄土宗のお寺である雲光院に葬られました。

83歳という長寿を全うしたことから、

流産してからは長い間健康を維持していたものと思われます。

雲光院は、もとは現在の東京都中央区にありましたが、

火事等でたびたび移転を繰り返し、

1683年に現在地に移転しました

。初代将軍・家康公の側室のゆかりの寺院ということもあり、

幕府の保護を受け、多くの塔頭を擁する大寺院として繁栄しました。

最初の夫を亡くして未亡人になり、

家康の側室となった後も流産するという不幸を乗り越え、

側近並みの役割を任されて天寿を全うした阿茶の局。

その最後は、とても幸福なものだったのではないでしょうか?

私には想像も及びませんが、時代を駆け抜けたかっこいい女性!

として憧れます。

読んでくださりありがとうございました。

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