平安時代末期に活躍した貴族、藤原兼家は藤原道長の父であり、
一条天皇や、一条天皇中宮定子、彰子の祖父でもあります。
藤原北家を盛り上げた藤原兼家と
彼の周りの女性たち、子供、生首事件など
興味深いエピソードにスポットを当て謎に包まれた最後の真相に迫ります。
藤原兼家の妻を順番に紹介、蜻蛉日記の作者もいた?
まず、藤原兼家とはどんな人物だったのでしょうか。
彼は平安時代末期に活躍した貴族で、政治の舞台でも大きな影響力を持った人物です。
今回注目するのは、彼の私生活です。
藤原兼家には複数の妻がいたとされています。
これは当時の貴族社会では珍しいことではなく、
政治的な同盟を形成するための手段として複数結婚が行われ、
その中には日本最古の女流日記『蜻蛉日記』の作者もいたんです。
では、どのような女性たちが兼家の妻となったのか、早速見ていきましょう。
まず最初に紹介するのは、藤原兼家の正室である藤原時姫です。
時姫との結婚は、平安時代の貴族社会において重要な結びつきを示し、
摂政や関白として藤原家の権力を頂点に押し上げた藤原道長を含む複数の子供をもうけました。
時姫は美しく賢く、兼家と結婚してからも夫に対して忠節を尽くしました。
しかし、兼家は時姫だけでは満足せず、他の女性とも関係を持ちます。
その中には、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母もいたようです。
藤原道綱母は若くして兼家に嫁ぎましたが、夫は他の女性とも関係を持っていたため、
嫉妬や不満を抱きましたが、それを素直に表現することはできません。
そこで、道綱母は日記を書くことに夢中になりました。
それが『蜻蛉日記』です。
藤原道綱母は、『蜻蛉日記』に、貴族社会の女性が経験する日常生活、恋愛、感情の動き、自然や花などの美しさ、そして社会行事を記しました。
道綱母は兼家の妻の中でも最も才能豊かな人物であったのですね。
藤原兼家には他にも複数の妻がおり、それぞれが彼の政治的・社会的地位に影響を与えたと考えられています。
彼女らの存在は間違いなく、彼の政治的な野心を支え、
また時にはそれを超える影響を及ぼした女性もいたことでしょうね。
それが貴族社会の慣わし、と言って仕舞えばそれまで。
藤原兼家ほど、この手段をうまく活用した人はいないんじゃないかなって思います。
できる男、なんでしょうけど私はあまり好きではありません。
そう感じる人は、当時もいたようで
本記事でも述べますが、通常では考えもつかないエピソードも色々ある方です。
藤原兼家の子供は9人?
平安時代、輝かしい貴族社会の中心にいた藤原兼家。
彼の人生の中でも特に目を引くのは、大家族であったことです。
なんと、兼家には9人の子供がいたと言われています。
これは、私たちにとってただの数字以上の意味を持ちます。
一体、どのような家庭だったのでしょうか?
そして、これが当時の貴族社会にどのような影響を与えたと思われますか?
まず、9人の子供がいるということは、
藤原兼家がいかに社会的地位が高かったか、
そしてその家族がどれだけの力を持っていたかを物語っています。
貴族の世界では、子供は単なる家族の一員ではなく、
家族の名声を広め、権力を維持するための「戦略」の一部でした。
子供さえも道具、というのは恐ろしい考え方ですよね。
兼家の子供たちは、それぞれが政治や文化の舞台で重要な役割を担い、
藤原氏の名を高めるのに一役買っていたのです。
個人の幸せよりも家の名を高めることが重要だった
というのは現代にはそぐわない考え方ですよね。
道兼と正室時子の間の子供は5人です。
息子が、道隆、道兼、道長の3人で
娘が超子、詮子の2人です。
これらの息子は全員、宮中の主権を手にいれ、
娘は天皇の母となっています。
すごい親子なんですよね。
残りの4人の子供のうち2人は、
蜻蛉日記の作者である藤原道綱母との間の道綱と
道綱母の養女である娘。
藤原忠幹の娘との間に生まれた通義。
藤原国章の女との間に生まれた綏子(やすこ、又はすいし)。
母は不明ですが、のちに僧侶となった兼俊がいます。
なんとも言えない、家族構成ですね・・・汗
藤原兼家の子供たちは、皆なんらかの地位についています。
単なる人数の問題ではなく、
当時の社会構造や文化、政治に深く関わる興味深いテーマでもありますね。
藤原兼家の生首事件、一条天皇には嫌われていた?
藤原兼家の生首事件は、平安時代の、驚くべきエピソードの中でも
特に衝撃的な話題の一つです。
この事件について、藤原兼家と一条天皇との間の関係に新たな光を当てていきます。
藤原兼家は一条天皇に嫌われていたのでしょうか?
そして、事件の理由は何だったのでしょうか?
まず、藤原兼家、彼は一条天皇と複雑な関係にありました。
理由は、政治的な権力争いと家族間の結びつきです。
藤原兼家は、藤原北家を代表する一族の中心人物であり、
その時代の政治において中心的な役割を果たしていました。
彼の家族は、天皇家と結婚を通じて深い関係を築いており、
これにより藤原家は政治的な影響力を大きく拡大していたのです。
このような背景から、藤原兼家と一条天皇の間には、
権力の均衡と保持に関する緊張が常に存在していました。
一方で、兼家は天皇家との結びつきを利用して自家の権力を強化しようと試み、
他方で、一条天皇は皇族としての権威を保ちながら、
貴族たち、特に藤原家がさらに強くなるのを防ごうとしていました。
血が繋がっている祖父と孫なのですが
権力を間に挟んでのせめぎ合いには、私には正直理解できません。
おそらく掃除像以上に、藤原兼家の政治的野心や行動が、
一条天皇の意向に反する場合もあったのでしょうね。
じいじ、うざい!!て感じかしら?
兼家が取った政策や決定が天皇の権威を損なう可能性があると感じられた時には緊張が生じました。
また、藤原兼家が政治的に強い影響力を持つことは、
天皇としての一条天皇の独立性を脅かすものと見なされたのでしょうね。
「生首事件」とは、一条天皇が即位される日の朝、
新しい玉座に生首が置いてあった、という事件です。
歴史書の「大鏡」に記されているのですが、
犯人はわからないものの、
その報告を受けた兼家は寝たふりをしたそうです。
そうして、しばらくしてから「準備は終わったか?」と
家臣に尋ねたということなんですよね。
一条天皇が即位したのは7歳の時なので、
そのことに不満を持った誰かの仕業とは考えられますが、
円融天皇や花山天皇を退位に追いやった兼家に対する
嫌がらせもあったのではないかなあなんて
思ったところです。
一条天皇も兼家に対して持っていた不満や疑念を表す方法として、
「兼家の生首を見たい」と言ったことがあるとか・・・。
一条天皇も兼家に対する不満を隠さなかったようですね。
藤原兼家の最後、死因は?
藤原兼家の最期は、病死と言われていますが
その真相はわかっていません。
平安時代の超大物貴族、その生涯に幕を下ろしたのが990年7月2日といわれます。
享年は62歳ということだったので
当時の平均からするとまあまあ適度なお年でお亡くなりになった
というところでしょうか。
一条天皇が元服したのを見届けて、
その3日後に関白を引退してしまいます。
その理由も病気ではないかと言われていますが定かではありません。
関白職を長男の通高に譲って引退をするのですが、
その2ヶ月後に亡くなってしまうのです。
推測すると、自分の一族以外に関白を譲りたくない兼家が
自らの体調に不安を感じて長男に譲る。
そして、そのことに安堵して
それまで自分がしてきた様々なことの因果を引き受けて往生したのかなって
思ったところです。
こう考えると、当時の時代背景からすると
なんとなくわかる気がするのですよ。
藤原兼家は、藤原北家を繁栄に導いた立役者であることは間違いありません。
そのことが、その後の宮廷での政や文化にも影響を及ぼしていくのですから
もっともっと歴史の表に出てもいい人物だなあって思いました。
教科書には藤原道長のことばっかりですからね。
個人的には、好きになれないタイプですが、
この時代にめちゃくちゃ頭が切れた出世頭だったということですね。
読んでくださり、ありがとうございます。
コメント