徳川四天王とは、徳川家康を支えた
重臣たちのことです。
家康が、まだ松平の名の時から生死を共にしてきた家臣たちということで、
この4人がいたことで、徳川家康が戦乱の時代を乗り越えられたと言えるでしょう。
その4人のその後や子孫についてお伝えします。
徳川四天王とは?を簡単に解説
徳川四天王とは、家康の身近で共に戦乱を乗り越えてきた
4人の重臣のことを指します。
とはいえ、4人が常に一緒にいたというわけではなさそうです。
家康が若い頃からそばに支えていた
酒井忠次、その後家臣に加わった、
本多忠勝、榊原康政、
そして、最後に加わったのが井伊直政です。
それぞれに、勇猛な武将であり、
逸話も多く残っています。
四天王というのは、
仏教の四天王になぞらえた呼び名ですが、
武田氏が4人の重臣を四天王と記録していたことに
由来しているとも言います。
徳川四天王の筆頭は誰?
徳川四天王の序列は特に決まってはいないようですが、
年代や仕えた歴史からその順位を
つけることはできそうです。
そうすると筆頭は、
家康の父の時代から仕えていた
酒井忠次になるでしょう。
石川数正と並ぶ中心的な人物ですが、
和正が豊臣方に出奔した後は、
一団をまとめる立場であったと言われています。
年長者であり、なんと39年も家康に仕えたのだそうです。
次は、本多忠勝です。
槍の使い手であり、その勇猛さは、
生涯57回の合戦で戦ったものの
傷を負わなかったという伝説があるほどです。
「家康にスギ立つものが二つあり、唐の頭に本多平八」
という言葉が残っているほどだそうです。
その忠勝と同い年で、良きライバルだったのが
榊原康政です。
武勇に加えて、教養もあり達筆であったと言われています。
文武両道を実現させていた人物らしいですね。
最後に家臣についたのが
井伊の赤鬼とも言われた井伊直政です。
武芸に加え、知略にも優れ、
交渉術にも長けていたといいます。
以上のように、ランクづけをすると
年代順にこのようになります。
しかし、
最終的に一番高い位についたのが井伊直政でした。
徳川四天王、酒井忠次のその後と子孫は?
酒井忠次は、家康が人質の時代から、
仕えていた最古参の重臣です。
1560年の桶狭間の戦いの後に、
松平(徳川)家の家老となり、
三河一向一揆では、酒井の家の者がほとんど一向一揆に加わったにもかかわらず、
家康に従い、忠臣としてその後も支え続けました。
家康が直面した大きな戦いでも
功績を多く立て、
筆頭家老として取り立てられていました。
しかし、1579年に、織田信長から家康の長男、徳川信康について詰問された時、
十分に弁解できず、切腹を防げなかったともされています。
とはいえ、
これは本当に信長の指示なのか、
家康の意思なのか理由は明確にされていないとのことです。
このように、酒井忠次は
家康の忠臣として生きてきましたが、
秀吉が天下を取った後、
1588年に隠居しています。
その2年前に、家中では最高位の
従四位下・左衛門督に任命されています。
しかし、眼病を患い、
目が思うように見えなくなっていったといいます。
そのため、長男の家次に家督を譲っての
隠居生活に入ったようです。
その後は、京都に暮らし、
1996年京都の桜井屋敷で生涯を終えました。
享年は70歳です。
忠次のお墓は、知恩院の中の先求院というところにあります。
酒井忠次の子孫は?
酒井忠次の子孫は、
長男の家次が家を継いでいます。
家次は、下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石の
大名となった。
さらにその子孫は、出羽庄内藩17万石と
譜代大名としては大手の家へとなっていっています。
庄内は今の山形県ですね。
酒井忠次の子孫は現在もその地を受け継いでおり、
19代目は酒井忠頼氏というそうです。
山形県鶴岡市のご出身で企業の社長を務めているとのこと。
また、忠次の次男は
本多廉俊というのですが、
その子孫の本多廉穣は近江膳所藩主として
明治まで家を存続していました。
徳川四天王、本多忠勝のその後と子孫は?
四天王の中でも、最も勇猛と称された本多忠勝。
幼い頃から、家康に仕えていたそうです。
忠勝の父は、本多忠高といい、
家康の家、松平家の最古参の家臣だったそうです。
正し、父忠高は早くに戦死し、
叔父の忠真に育てられたのだそうです。
家康が直面した数々の戦で手柄をたて、
家康からは
「まことに我が家の良将なり」と褒められたとか。
その働きは、秀吉も認めるものだったそうなので、
この人の働きで徳川の家が生き延びれたとも
言えるんじゃないかなって思います。
1590年、家康が関東に移るのをきっかけに
上総國夷隅郡大多喜の地を任され、
10万石という大きな国を受領しています。
これは、安房国の抑えだったとも言われています。
関ヶ原の戦いでも大きな功績をあげ、
東軍の勝利に与しています。
その功から、
三重県の桑名へ10万石を与えられ移り住んでいます。
桑名藩の藩政を立て直し、明君と言われるまでになったとのこと。
しかし、残念ながらさすがの忠勝も年には勝てません。
政も、徳川2代目将軍秀忠のもとで行われるようになり、
忠勝は一線から退きます。
一旦は家康に慰留されますが、
1609年に嫡男の忠政に家督を譲って隠居します。
この時、忠勝は眼を患っていたとのこと。
その翌年、生涯を終えます。
享年は63歳でした。
本多忠勝の子孫は?
その忠勝の子孫ですが、
嫡男忠政は桑名藩主となりますが、
その後播磨姫路藩主となり15万石を与えられています。
次男忠朝は大多喜に5万石を与えられ
そこの藩主となります。
本多家は、その後
大和郡山、姫路、三河刈谷、石見濱田などを転々とし、
三河岡崎藩で明治を迎えています。
子孫はなんと有名人が揃っているのです。
忠政は2人の子を残します。
一人が本多忠刻です。
このかたは、千姫と結婚し、
その末裔に徳川慶喜がおわします。
もう一人が本多政朝といい、
その子孫が現在でも生き残っています。
本多隆将さんという一般人です。
次男の本多忠朝の子孫が
楽天の三木谷浩史氏ということです。
驚きですね。
本多忠勝は、徳川四天王として大活躍をし、
死したのちも子孫らが脈々とその地を受け継いで繁栄していったということのようです。
*本多忠勝の強さの理由や妻、子供についてこちらに詳しくまとめました
徳川四天王、榊原康政のその後と子孫は?
徳川四天王の一人、榊原康政は、
本多忠勝と同年齢だったことから
仲が良かったとされています。
康政の家は、松平氏家臣の酒井忠尚の家臣ということで
格はありませんが、
幼い頃から書物を好み賢い子だったようです。
それを家康に見出されて小姓となり、
三河一向一揆の鎮圧での活躍が認められ、
「康」の文字をもらったのです。
そして、家康の下で様々な戦も経験します。
織田信長死去後の伊賀越も同行したそうです。
家康が関東に移り住んだ時には
江戸築城にも携わったとか。
所領として、上野国館林城、10万石を拝領し、
大名としての地位を築きました。
関ヶ原の戦いでは秀忠に付き従いますが、
真田攻めで本隊に遅れをとり、
家康から叱責されたとのことです。
正し、ここで秀忠を庇って執りなしたことで
秀忠には感謝されたのだそうです。
1606年に毛嚢炎を患います。
これが思った以上に悪かったようで、
発祥のわずか8日後に息を引き取っています。
秀忠からは、
医師や家臣が遣わされたそうですが、
その甲斐もなかったのですね。
享年は59歳でした。
榊原康政の子孫は?
さて、その康政の子孫についてです。
康政には、息子が3人いました。
長男の忠政は、母方の大須賀家へ養子に入りました。
次男の忠長は19歳で早逝したため、
家督は三男の康勝が継ぎました。
しかし、康勝も26歳で後継を残すことなく亡くなったため、
お家断絶の危機を迎えます。
それを救ったのが、
家康だったのだそうです。
忠政の長男、忠次を榊原の家に戻し
後を継ぐことを許したのだそうです。
その後も、何度か、
世継ぎがいない問題があったそうですが、
その度に養子を取ることで家を存続させてきたということ。
現在、榊原家の家を継いでいる当主は
榊原政信さんといい、
会社経営をしていらっしゃるそうです。
徳川四天王、井伊直政のその後と子孫は?
井伊直政は、四天王の中でも一番若く、
そして一番高い位を授かっています。
元々は、今川の家臣であった井伊家の御曹司だったが、
家臣に命を狙われたことから出家させられ、
その後家康に仕えることになったということです。
家康に気に入られた直政は、小姓に取り立てられ、
武田氏との戦いで功を立てます。
その後、武田の兵法を引き継ぎ、
赤備えで戦いに臨んだことから、
井伊の赤鬼と言われるようになったのですね。
家康が秀吉の傘下に入ることになった時、
家康について上洛するのですが、
この時に、秀吉にいたく気に入られたようで、
公家成に該当する身分を与えられたのです。
そのことで、藤原姓を賜り、
書面には藤原直政の署名があるものも見られるそうですよ。
その後、家康が関東に移る際に同行し、
上野国箕輪に12万石を賜っています。
これは、四天王のうちでも
最大の石高になります。
家康は、よっぽど直政を買っていたのでしょうね。
元々が国主の出ということから
他の家臣とは身分の格も違っていたということかもしれません。
関ヶ原の戦いでは、
本多忠勝と共に東軍を率いる大きな役を
任されています。
そこでも大活躍するのですが、
なんと、足に大怪我を負ってしまうのだそうです。
それにも関わらず、
戦後処理も着々と進め、毛利輝元との和平交渉や
島津氏との和平交渉なども行ったそうです。
これらの功により、
石田三成の旧領であった近江国佐和山(今の彦根)に
18万石で移ることになりました。
しかし、彦根城の築城中に
直政は死去します。
享年42歳だったそうです。
あまりにも早い死。
時代を駆け抜けた風雲児であったのですね。
井伊直政の子孫は?
その子孫ですが、
直政の長男の直継が彦根城を受け継ぎますが、
1615年に幕府の命により、
その城を弟の直孝に譲ることになります。
そして、直勝と改名して
安中藩の藩主となります。
その後井伊家は、直孝の子孫が継承していくことになります。
直勝の子孫も、安中藩の後、三河西尾、遠江掛川、越後与板藩の
藩主として存続していくのです。
井伊家直系の子孫は
現在は井伊直岳(岳夫)さんがついでいるそうです。
彦根市の職員であるとのことで、
子孫の代まで彦根に尽くしているのだなあと感動しました。
ここまで、徳川四天王についてまとめてきました。
どの方も魅力的ですね。
歴史上の人物は、しれば知るほど興味をそそられます。
読んでくださりありがとうございます。
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