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源倫子は藤原道長の妻、子どもは何人?紫式部との関係や長生きの理由も

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 源倫子はあの藤原道長の正妻としてその名を知られています。

しかし、「藤原道長の妻」ということ以外は、あまり知られていないようです。

実は、源倫子に関するエピソードを紐解いていくと、

源倫子が非常に魅力的な人物だったことが分かります。

しかも当時では珍しいほどの長生きなのです。

この記事では、そんな魅力や紫式部との関係を解説していきます!


源倫子は藤原道長の妻、性格はよかった?

藤原道長というと

「平安時代中期の政治を牛耳った最高権力者」というイメージが先行します。

しかし、そんな道長から見ても、倫子は格上の女性でした。

倫子は源雅信という人物の娘です。

雅信は宇多天皇の孫にあたるため、倫子は宇多天皇のひ孫という事になります。

つまり元から藤原氏より身分が高かったのです。

その上、道長は摂政・関白を務めた藤原兼家の息子とはいえ、

五男坊であり、出世の可能性は低いと考えられていました。

さらに結婚当時の年齢は、倫子が24歳で道長が22歳。

倫子が2つ年上の姉さん女房です。

この点から勘繰ってしまうと、

倫子がハイスペすぎて相手を見定めているうちに

年齢を重ねてしまったことにつけ込んだ、上昇志向の強い藤原兼家が、

自分の家の格を上げるために道長の嫁にと望んだのではないか、、って考えてしまいます。

まあ、そういうゲスな勘ぐりは別にして、

藤原道長と源倫子の夫婦仲はかなり良かったようです。

道長が残した日記「御堂関白記」によると、

藤原道長は倫子と行動をともにしていることが多く、

天皇の住居によく一緒に行ったり、お寺にお参りにいったり、

宇治まで遠出したりしています。

源倫子が行動的な女性とも感じ取れますね。

夫婦仲が良く、夫の日記に度々登場していることから、

倫子は温厚で友好的な性格であったことが推測されます。

道長が最高権力者になれたその影には、

源倫子の内助の功もあったのかもしれないですね!

源倫子と藤原道長の子どもは何人?

道長と倫子の間には、子供が6人、2男4女が生まれています。

男子は頼通と教通、女子は彰子、妍子、威子、嬉子の計6人です。

6人はこの時代で言うと

平均的なのだと思いますが、

私にとってはとても子沢山に思えてしまいます。

長男の頼通が24歳の時に発病した時は、

倫子はまるで小さな子供を扱うように看病をしました。

四女の嬉子が若くして亡くなってしまった際には、

悲しみのあまり取り乱し、遺体を抱きしめて悲しんだそうです。

倫子は存命中に3人の娘(妍子、威子、嬉子)に先立たれており、

その3人は全員倫子の邸宅で亡くなっています。

これは、倫子自身が直接看病をしていたからだと考えられています。

これらのエピソードから、倫子はわが子に深い愛情を持ち、

優しく接していた良妻賢母であったことが窺えますね。

それでも、半分の子が自分より早く亡くなるとは

辛い思いもされたのでしょうね。

源倫子と紫式部の関係は?仲はよかった?

倫子にとって、紫式部は娘である中宮彰子のお付きの女官であり、

直接的な関係はありませんでした。

よって、あまり接点はなかったものと思われます。

しかし、倫子と紫式部の関係を著す数少ないエピソードが、

「紫式部日記」に書かれています。

その内容とは、ある日紫式部のもとに、

倫子から「これで顔を拭いて若返りなさい」というメッセージ付きで、

水分で湿らせた綿が送られてきたというものです。

これに対し紫式部は、

「この贈り物はお返しします。倫子様こそ若返ってください」

という返事をしたためますが、

手紙が書けたころには倫子の使いの者は帰ってしまっており、

意趣返しができなかったというものです。

このいかにも京都流の、いけず心満載のエピソードから、

倫子と紫式部の仲はあまり良くなかったものと思われます。

大河ドラマの中では、

2人は親しげに描かれていますが、

実際は身分も違うし、

源倫子にとっては紫式部は娘のお手伝いさんのような相手。

ドラマにあるような、親しい交流はないと見た方が

つまらないけど正しそうですね。

源倫子は長生き、お墓はどこに?

1008年、44歳になった倫子は

敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生により、

従一位の位を賜ります。

当時の天皇ははじめ道長を従一位にすることを決めていましたが、

道長が辞退したため、代わって妻子が昇格したものと思われます。

女性が従一位に上り詰めた先例としては、

藤原氏宗の妻であった藤原淑子の例がありますが、

彼女は女官として在任してどんどん昇進し、かつ養子としていた定省王(さだみおう)が宇多天皇として即位をしたことで

「天皇の養母」として扱われた経緯があります。

結果として、倫子は役職につかないまま従一位になった歴史上初めての女性となりました。

1027年、夫である道長が死去。

また長女の彰子を除く三人の娘にも相次いで先立たれました。

1039年、ついに倫子は75歳でに出家、

1053年に90歳で死去しました。墓所の所在は不明です。

早死に、若死にが目立ったこの時代において、

90歳という驚異的な年齢まで生き延びた倫子。

現代でも長生きに入る年齢ですね。

6人の子供を産んだことから考えても、生まれつき体が丈夫だったうえ、

貴族階級の豊かな食生活に恵まれた結果とも考えられますね。

源倫子の生涯、はっきりとした資料がないことから

逆に想像を膨らませるのも楽しいものです。

源倫子が道長の妻として支えなければ、

あの栄華もなかったかも・・・

そんな思いさえ抱いた、魅力的な女性です。

読んでくださり、ありがとうございました。

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