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三淵嘉子の父母は武藤貞夫はノブ、帝大出のエリート銀行マンは婿養子

虎に翼
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三淵嘉子さんは、日本初の女性弁護士で

2024年春の連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデルとなった女性です。

旧姓は武藤嘉子さんといいました。

自由で独立心旺盛な嘉子さんを育てたご両親はどんな方だったのでしょうか?

三淵(武藤)嘉子さんの父と母について紹介します。

三淵嘉子の父、武藤貞夫は帝大出エリート

三淵嘉子さんのお父様は武藤貞夫さんとおっしゃいます。

香川県丸亀市出身で、

元の姓を宮武と言いました。

ご実家は、代々丸亀藩の御側医を務めたお家柄ということから、

由緒ある名家だったと考えられます。

貞雄さんもとても優秀な方だったようで、

東京帝国大学法科を卒業されています。

女性が職業を持ち、自立することへの理解があり、

法律家を目指した嘉子さんに対しても

「医者や弁護士を目指してはどうか」という声かけをしていたほどです。

ノブさんとの結婚を機に、

武藤家の婿へ入りました。

お仕事は、台湾銀行のエリート銀行マン!

シンガポール支店を開設したことから、

ノブさんを伴ってシンガポール支店へ赴任されています。

嘉子さんは、その赴任先のシンガポールで生まれており、

「新嘉坡」というシンガポールの漢字表記から

嘉という文字を名前につけられたというエピソードがあります。

貞雄さんは、その後ニューヨーク支店の勤務を命じられ、

嘉子さんは母のノブさんと共に

一旦丸亀に戻ってそこで生活をしていました。

4年後、ニューヨーク勤務を終えて戻った貞雄さんは

東京支店長となっていました。

そこで東京で生活を送るようになるのです。

そして、弁護士を目指す嘉子さんの良き理解者として

そばで応援していてくれたのですね。

実の父親がいちばんの理解者だったって

当時からすると想像できない素敵なことだったと思います。

貞雄さんは、台湾銀行から

新しく設立された南洋鉱業公司の理事兼総支配人へと勤務を変え、

自身でも昭和興業合資会社を起こして代表となったり、

他にも社長を務めたりと

実業家としてのご活躍をされていました。

いやあ、本当にすごいお父様ですね。

嘉子さんが法曹家として目覚ましいご活躍されたのは

お父様の遺伝かもしれない!

って思いました。

三淵嘉子の母、武藤ノブは良妻賢母

三淵嘉子さんのお母様は、武藤ノブさんといいます。

広島県出身で、実の父は宇野伝二郎さんというのですが

早くに亡くなったため

裕福な伯父、武藤直言・駒子夫妻の養子となっています。

このご夫妻には、実子がいなかったことから、

ノブさんに婿をとったのではないかとも考えられます。

この直言さんは金融業を営む資産家だったのですが、

倹約精神が行き届いたお家での教育を受けたようです。

そして、当時の御多分に洩れず、

ノブさんには良妻賢母を目指した教育が行われたのです。

駒子さんは、質素倹約の精神を

妥協を許さずきっちりと教え込んだと言われています。

物の使い方はもちろん、家事もみっちりと仕込まれたそうです。

血縁関係がない中での躾は

時には厳しく、愛を感じられる物ではなかったそうです。

後年、ノブさんは、

駒子さんのことを話題にするたびに、

「性格のキツい人」「厳しい人」と

表現していました。

女学校には通わせてもらっていて

それは厳しい家の中の生活に比べると

ちょっとした息抜きだったんじゃないかなって思います。

そんな教育を受けてきたノブさんなので、

娘の嘉子さんにも良妻賢母を望んだようです。

しかし、

夫の貞雄さんは、そんな女性の在り方に疑問を持ち、

自立心を育てていたのは皮肉な物ですね。

嘉子さんが、大学に行って法律を学びたいと言ったときに、

「嫁の貰い手がなくなる」と嘆いたというエピソードがあります。

女性の幸せは、よき結婚にある。

まだまだ、女性が自身の力で働き、生活するのが難しかった時代、

ノブさんが嘉子さんにそれを望んだのは無理もないことですね。

三淵嘉子は父母と夫を戦時中に一気に亡くす

三淵嘉子さんは、普通の家庭よりも恵まれた環境で

育ってきたことがご両親の姿から想像できます。

経済的にも精神的にも、

自分の思うままに振る舞うことができた家庭だったのではないでしょうか。

そんな、素敵なご両親を、嘉子さんは一気に失うことになるのです。

まず、1945年に夫である和田芳夫さんを

病気のために失います。

芳夫さんは、1944年に出征するのですが、

その先で肋膜炎を発症し帰国の途中に、

長崎の病院で亡くなってしまいます。

1946年のことでした。

嘉子さんはその死に目に会うこともできなかったのです。

その翌年、母のノブさんを脳溢血で亡くします。

戦後の厳しい生活の中、

苦労がたたったのかもしれないですね。

その同じ年に、父の貞雄さんを肝硬変で亡くします。

嘉子さんにとっては

たった1年の間に、大事な家族である

夫、両親を相次いて失うという不幸に見舞われたのです。

まだ幼い息子を抱え、

嘉子さんは裁判官の道を志すことになります。

その後の嘉子さんの運命を大きく変えたことになったのは

間違いのない出来事だったと思います。

三淵嘉子とは?

三淵嘉子さんは、日本で初めて女性弁護士になり、

その後裁判官として数々の功績を残した女性です。

簡単にまとめたプロフィールはこちらです。

三淵嘉子のwikiプロフィール

三淵嘉子/みぶちよしこ:武藤嘉子(旧姓)・和田嘉子(初婚での名)

生年月日:1914年11月13日

没年月日:1984年5月28日 享年69歳

学歴:東京府青山師範学校附属小学校

   東京女子高等師範学校卑属高等女学校

   明治大学専門部女子部法学科(法学部)

経歴 第二東京弁護士会に登録(1940年)

   裁判官採用願を提出し、司法省民事局付・最高民事局局付・家庭局局付(1947年)

   東京地裁判事補(1949年)

   名古屋地方裁判所で初の女性判事となる(1952年)

   東京地裁判事(1956年)

   東京家庭裁判所判事(1963年)

   新潟家庭裁判所長(1972年)

   浦和地裁所長(1973年)

   横浜地裁所長(1978年)

   退官(1979年)

   弁護士として再活動(1980年)

ここから、嘉子さんは法の力を借りて

多くの困難に遭う人たちを助けてきたことがわかります。

その、大きな使命を育んだのが幼い頃の両親からの影響だったのかもしれません。

嘉子さんのご両親の人生を少し紐解いて、

このお二人が、素晴らしい宝を世に残したことを

しみじみと感じ入りました。

読んでくださり、ありがとうございます。

*「虎に翼」キャストモデル相関図はこちらです

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