笠置シヅ子さんを知っていますか?
私は、ギリギリ名前を知っているくらいです。
代表曲の「東京ブキウギ」は聞いたことがあって、
テンポよく明るいメロディーが耳に残っています。
2023年秋の朝ドラの主人公のモデルでもある
笠置シヅ子さんの夫、娘、孫などのご家族や、現在の様子などを調べてお伝えします!
笠置シヅ子の夫は吉本興業の御曹司!?
笠置シヅ子さんは、実は正式に結婚をしていません。
シヅ子さんの夫となるはずだった男性は
結婚をする前に亡くなってしまったからです。
その男性とは、吉本興業の社長吉本せいさんのの息子さんの
吉本穎右(よしもとえいすけ)さんです。
吉本穎右さんは、笠置シヅ子さんよりも
9歳も年下だったということです。
昭和16年名古屋巡業の折に出会ってから
交際が始まったのだそうです。
初めは年齢差もあり、恋人というよりは
姉と弟のような関係だったのが、
だんだんと親しくなっていったという感じみたいです。
昭和20年の東京大空襲の際には、
自宅を焼かれてしまった二人が
偶然にも同じ家に住むようになったことも
その関係を近づけることになったようです。
吉本穎右さんは、
笠置シヅ子さんと出会った頃は大学生だったと言います。
でも、その大学を中退し
吉本興業の東京支店で修行をして
その後大阪に戻ることになります。
とはいえ、親にもなかなかそのことを言い出すことができないうちに
シヅ子さんは二人の子を妊娠し、
穎右さんは、子供が生まれたら認知してそれから籍を入れる
段取りを考えます。
シヅ子さんは、大きなお腹でも舞台に立っていたそうですが
昭和22年の1月の舞台公演の途中で穎右さんからの求めもあり、
引退を決意するそうです。
しかし、その頃大阪に住む穎右さんは、
結核をわずらいその年の5月19日に帰らぬ人になってしまうんですよー
シヅ子さんはその最後には会うことはできず、
事務所の関係者からその報告を聞いたそうです。
ショックだったでしょうね・・・
想像するだけで胸が痛くなりますね。
長くなりましたが、
笠置シヅ子さんは、生涯穎右さんを思い続けたということで、
夫といったら、この方なのだそうです。
残念なことに、お相手が亡くなってからなので
籍に入ることはできず、
生まれたお子さんも一人で育てることにしたということ。
強く愛情深い女性だったのだなあと感じました。
そのお子さんについては
次に続きます。
笠置シヅ子の娘の現在は
笠置シヅ子さん、穎右さんが亡くなってから程なくして
女のお子さんを出産します。
お名前を亀井エイ子さんと名付けます。
このお名前は、
穎右さんの遺言だったとのことで、
男の子だったら静男、女の子だったらエイ子
と決めていたのだそうです。
これは、お二人の名前をとった命名だったのですね。
亀井エイ子さんは
昭和22年6月1日生まれですから
現在76歳ということになります。
エイ子さんは、一般人として生活されているため
表に顔を出すことはほとんどありません。
ですから情報もほとんどないのです。
ただ、
母の談話として、
「母は、穎右一筋でした。」
「(歌手を引退してからは)、鼻歌を歌うこともありませんでした。」
ということをおっしゃっています。
女手一人で自分を育てる母親を見ながら
どんなことを思っていたのでしょうね。
いつか、エイ子さんのその後のお話も
聞いてみたいなと思いました。
笠置シヅ子に孫はいる?
笠置シヅ子さんにはお嬢さんが一人いらっしゃいます。
それが、先述のエイ子さんです。
でも、
そのエイ子さんについての情報がほとんどないので、
お孫さんについてもどうなのかはわかりません。
ただ、吉本興業の正当な血を引く方なので、
お孫さんがいたら、
吉本興業も放っておかないかもしれませんね。
お孫さんについても
今後情報がわかったら追記したいと思います。
笠置シヅ子とはどんな人?
さて、ここで笠置シヅ子さんについても
少し説明しましょう。
笠置シヅ子さんは、
1914年(大正3年)に生まれ、
対象から昭和の時代を駆け抜けた
歌手・女優です。
出身は、香川県大川郡相生村、
生後間も無く父親が亡くなり、
母親が育てていたのですが
母乳の出が悪かったらしく近所に帰省していた女性に
お乳を分けてもらっていたのだそうです。
その後、その女性(大阪在住のお米屋さんの奥さん)が
自分の実子と共に大阪にシヅ子さんを連れ帰り、
そのまま養子となったということなんです。
1927年に小学校を卒業して宝塚音楽歌劇学校を受験します。
しかし、身体が細く、宝塚の過激な生活には向かないだろうとのことから
不合格となってしまいます。
それでも、この頃から、歌と踊りの才能は
秀でていたようですね。
結局、「松竹楽劇部生徒養成所」へ入学し、
芸能界への足がかりを掴みます。
三笠シヅ子でデビューするも
途中で笠置へと改名、
松竹歌劇団へと入団します。
そこで、作曲家の服部良一と出会い、
天性のスター性を開花させていくのです。
第2次世界大戦では、そのステージは弾圧されることもありましたが、
終戦後は華やかなブギで暗い庶民の生活に光を灯す存在にもなりました。
1957年からは、歌手活動に見切りをつけ、
女優へと転身します。
女優業でも数々の作品に出演し、
大人気を博したそうです。
色々と暗いことがあったけど、
歌や踊り、演技などのエンターテナーとしての
才能が豊かな方だったと想像できますよね。
今では、歌も踊りも演技もは当然のようにこなす方が多いけど、
戦中戦後の時代は、
やはり何かに秀でるということで注目を浴びるんだろうなとも
考えました。
本名は、亀井シヅ子と言います。
笠置シヅ子の死因、最後は病気だった?
笠置シヅ子さんは、最後は卵巣がんでお亡くなりになります。
1980年代に体の不調を訴えることが増えたのだそうです。
1985年の3月30日に
東京杉並区の病院で死去します。
享年は70歳。
華やかな光とそれを支える影とを
併せ持った人生だったんだろうなと
思います。
最後の言葉が
「日劇時代は楽しかったね。」
との一言。
テレビで、自分を演じる研ナオコさんを見ながらの
一言だったのだそうですよ。
最後までスターですね。
笠置シヅ子は昭和の大スター!
笠置シヅ子さんは、昭和の時代を代表する
大スターだったのだなあとしみじみと思いました。
昭和生まれの私は、
晩年のシヅ子さんしか知りません。
カネヨクレンザーのおばさんが
シヅ子さんだったというのも
後から知りました。
最近は、昭和の音楽やエンタメを
若い人が楽しむ風潮もあるので、
笠置シヅ子さんを
もっと見る機会ができるかもしれませんね。
読んでくださりありがとうございました。
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