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藤原道長の兄弟、姉妹を簡単に!道長は9人兄弟の五男だった?

光る君へ
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長い藤原氏の歴史の中でも、

特に高い地位を独占し、絶大な権勢をほこった藤原道長。

もちづきの・・・という歌でその最盛期の様子が想像できますね。

彼は兄弟が多いことでも知られていますが、

それぞれの兄弟は一体どのような人物たちだったのでしょうか?

今回は藤原道長の兄弟姉妹の人物像について簡単にまとめました!


藤原道長は9人兄弟の五男だった

藤原道長は、藤原氏長者(うじのちょうじゃ)である

藤原兼家の五男として、966年に生まれました。

道長の兄は年齢順に、道隆、道綱、道兼、道義がおり、

姉は年齢順に、超子、詮子がいます。

道長の母は親せき筋の藤原中正の娘である時姫です。

兼家は女好きで、多数の妻を持っていましたが、

時姫はその中でも、特に多くの子女、

道隆・道兼・超子・詮子・道長の三男二女を産んでいるため、

正室として扱われていたとみられています。

幼少期、道長は中正の家で過ごしたと推そくされていますが、

道長の幼少期について記された文献がまったくないため、

どのように育ったかはまったく分かりません。

長兄の道隆は道長より13歳年上であったため、

中正の家で一緒に過ごした期間は短かったはずですが、

比較的年が近かった道兼や詮子とは

ある程度の期間一緒に暮らしていたと推そくされています。

関白の父を持っているとはいえ、五男として生まれた道長。

本来なら高い地位につける立場ではなかったはずですが、

次々と事情が重なり、破格の出世をとげていきます。

現代は、3人も子がいれば子沢山と見なされますよね!

この多くの兄弟、姉妹がいる中で

絶世の権力を得た道長は

すさまじい強運の持ち主ではないかしら?って思います。

藤原道長の長兄道隆は優秀だが病で若くして亡くなった

藤原道隆は、兼家の長男として953年に京で生まれました。

23歳の時、父兼家の命に従い、

花山天皇を強引に出家させる工作に加担しました。

その後順調に出世し、989年には内大臣に上り詰めました。

990年、長女の定子(ていし)を一条天皇の后として送り込んだあと、

同年、病を理由に父・兼家から関白の位を譲り受けました。

この定子が、清少納言が仕えたとされる女性です。

道長も、娘の彰子を一条天皇の中宮として送り込んでいます。

それが、権力を掴む手段であったとしても

現代社会に生きる私には、

複雑な気持ちにさせられます。

さて、道隆ですが、

991年には内大臣の職を辞めて、弟の道兼に譲ったものの、

993年4月22日に再び関白となります。

しかし間もなく体調を崩し始め、995年3月には職務遂行が困難になりました。

このため、道隆は長男の伊周(これちか)に関白の職を譲りたいと天皇に奏上しますが、

許可が下りないまま、4月に亡くなりました。

43歳の若さでした。

 『大鏡』や『枕草子』などの古典によれば、

道隆は容貌がスマートだった上に、

他者への気配りが行き届く気持ちの広さを持っていたようです。

兼家の長男として順当に出世していた道隆。

もうすこし長生きしていれば、長男の伊周が関白職を継ぐことになり、

道長の昇格の目は絶たれていた事でしょう。

関白に登り詰めたのに、病で倒れるとは、

なんとも無念なことだったでしょうね。

人生一寸先は闇。

先の事は分からないものですね。

藤原道長の次兄道兼は乱暴者?7日関白とは?

 藤原道兼は、藤原兼家の三男として、

961年に生まれました。

984年に、天皇のそばに近侍する蔵人に就任し、

花山天皇の補佐をするようになります。

しかし花山天皇は、兼家と血縁関係が無かったため、

早く朝廷の実権を握りたい兼家にとっては邪魔な存在でした。

986年、花山天皇は寵愛していた妻が死去すると深く嘆き、

落ち込むようになりました。

そこで、道兼は兼家から指示され、元慶寺の僧侶と共に仏の教えを説き、

「亡き奥様を出家して弔いましょう」「私もともに出家いたします」と説得しました。

986年6月、道兼は花山天皇を密かに内裏から連れ出し

元慶寺という寺まで連れて行き、剃髪させた後、

自分は寺から立ち去ってしまいました。

そして、その間に兼家は、孫にあたる一条天皇を即位させてしまったのです。

悪巧みに加担する道兼、父の命とはいえ、

実行してしまう人柄には私は好印象を持てません。

997年、関白であった兄道隆が没し、

道兼は後継の関白に任じられました。

しかしすぐに病にかかり、

10日後に35歳の若さであっさりと亡くなってしまいます。

世間の人はその早さに驚き、道兼を「七日関白」と呼びました。

 『大鏡』という書物では、道兼の性格について

「非常に冷酷で、人々から恐れられていたと記している他、

意地が悪く、長幼の順序もわきまえなかったとされています。

兼家の謀略家としての性格を受け継いだのか、

あまり性格が良くなかったとされる道兼。

史実に残っていることからして、

花山天皇をだまして出家させる役目は、まさしく適任だったのかも知れませんね。

藤原道長長姉は超子は三条天皇の母

藤原超子(ちょうし)は、藤原兼家の長女であり、道長の長姉に当たります。

冷泉天皇の女御となり後の三条天皇を産みましたが、

その即位を見ることなく、若くして亡くなりました。

 968年、14歳の時に冷泉天皇の后として宮中に入ります。

同年女御・、従四位下という位を授けられました。

その後に居貞親王(三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王の三男一女を産みました。

のち従四位上の位を与えられますが、982年に28歳で急死。

ある日の明け方、脇に置いてもたれかかるための用具である脇息に寄りかかったまま、

眠るようにしていつの間にか息絶えていたそうです。

 若くして亡くなったため、その人柄については謎のベールに包まれている超子。

しかし沢山の子宝に恵まれているところを見ると、

冷泉天皇との間には、円満な夫婦仲を継続できたのだろうなあと想像できますね。

藤原道長の次姉詮子は一条天皇の母

藤原詮子(せんし)は、962年に藤原兼家の次女としてうまれ、

6歳の時に円融天皇の后として宮中に入り、女御の位を与えられました。

981年に第一皇子・懐仁親王を生みます。

ところが親戚筋である関白・藤原頼忠の娘、遵子に

皇后の座を奪われてしまいました。

詮子はこのことに立腹し、実家の屋敷にこもり、

たびたびの呼び出しにも応じませんでした。

遵子には子がいないのですが皇后になったことで、

天皇と詮子との仲を揶揄する傾向もあったようですね。

私でも、「納得できない!」と憤りそうな気がします。

しかし、実子の懐仁親王が一条天皇として即位すると

形勢は一変しちゃうんです。

国母として強い発言権をもち、しばしば政治にも介入しました。

弟である道長を可愛がり、

藤原道兼没後の後継者争いでは一条天皇に道長を強く推薦し、

その関白就任を実現させました。

道長が、異例の出世を遂げていった理由には、

この詮子の存在があったとも考えられますね。

女性でありながら、

政治家のトップである藤原氏の関白争いに口をはさみ、

意思を貫くなんて、詮子めっちゃカッコいいです!

この時代の女性像からすると、受け入れられないかもしれませんが、

自分を認めない男を見限り、

子の肩に乗って発言権を得て、

自分の大事な弟に権力を持たせる、

最強の女宰相だなあと思いました。

藤原道長の兄弟姉妹についてまとめました。

読んでくださり、ありがとうございました。

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