戦国期から江戸初期にかけて、親子で徳川家を支えたとされる本多正純。
今回はその業績や、失脚の理由、本多忠勝との関係についてご紹介します。
本多正純は正信の息子、忠勝とは親戚?
本多正純は、徳川家康のブレーンとして活躍した
本多正信の息子です。
また徳川四天王と称された本多忠勝とは遠い親戚にあたります。
正純と忠勝は、共に本多助政という人物の子孫です。
助政には、定通と定正の2人の子がおり、
本多忠勝は定通から数えて7代目、正純は定正から7代目の当主です。
忠勝の血筋を「平八郎家」と呼び、
正信の血筋を「弥八郎家」と呼びます。
かなり遠い親戚ですが、その血は確実に繋がっているのです。
本多家はかなり繁栄していたようで、
家康に仕える本多姓の家臣は、なんと40家以上もあったとされています。
一方で、正純の父である正信と忠勝はあまり仲が良くなかったようです。
武闘派の忠勝は多数の戦場に参加して多くの武功を挙げる一方、
頭脳派の正信の事を「腰ぬけ」と呼んでいました。
家康がまだ若いとき、
本多正信は一時期家康を裏切って反乱軍として戦った履歴があるので、
忠勝はそのことも快く思っていなかったのかもしれません。
同じ一族であっても、立場や性格の違いから対立することは、
時代を問わずしばしばみられる事です。
そうではありながら、どちらも家康に重宝されたというのも
面白いことですよね。
本多正純は家康のブレーンだった?
本多正純は、結論から言うと家康ではなく、
家康の子、秀忠のブレーンとして活躍しました。
本多正純は、1565年、本多正信の嫡男として生まれました。
このとき父正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、
三河国を追放されて他国の大名を頼っていました。
のちに正信が徳川家康のもとに復帰すると、
正純も同時に家康の家臣として仕え始めます。
1600年の関ヶ原の戦いでは、家康に従って本戦に参加しました。
1603年、家康が征夷大将軍となってから
正純は家康に重用されるようになります。
1608年には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられました。
1616年、家康と正信が相次いで亡くなった後は、
2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(のちの老中)にまで昇進します。
2代揃って、その頭脳を見込まれ、出世できるってすごいことですよね。
さらに領地を加増されて5万3,000石の大名となります。
しかし先代からの宿老であることをたのみに
傲慢なふるまいを見せ始め、やがて秀忠の側近から嫌われるようになりました。
ここら辺は、父親の正信とも似ているところがありますね。
組織のために命がけで主君に仕え続けた優秀な人物が、
出世するたびに態度が大きくなってしまって嫌われるというのは、
人間の弱さを感じさせる現象として、現代にも通じるところもあります。
頭は良くても、人心を読む能力には
ちょっと欠けていたのかもしれないですね。
とても残念なことです。
本多正純が失脚した理由は亀姫(家康の長女)
徳川秀忠の政権下で、幕府中枢の世代交代が進んでいき、
秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで
正純の影響力、政治力は徐々に弱まっていきました。
亀姫は、家康の長女で、
秀忠からみて腹違いの姉に当たります。
美濃加納城主・奥平信昌の妻で、
二人の間に生まれた一人娘は、徳川家重臣、大久保忠常に嫁いでいました。
しかし、忠常が31歳の若さで病死し(本多正信による暗殺説もある)、
忠常の父、大久保忠隣は1614年に突然領地を没収されてしまいます。
亀姫は、本多正信・正純父子が、
ライバルである忠隣を追い払うための策謀をめぐらせたと考えており、
本多親子を快く思っていなかったようです。
そのため亀姫は、1622年に秀忠に対し、
正純が秀忠の暗殺を計画しており、
その時期は秀忠が日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊するタイミングで、
方法は風呂場に釣天井を仕掛けて襲撃するものだ、と訴えました。
この釣天井計画自体は事実無根でしたが、
正純は他の疑惑の責任も合わせて追及され、流罪となりました。
人生一寸先は闇。
権勢を誇った大物政治家が、
予想外の人物からの告げ口であっという間に地位を失ってしまいました。
これには当の本人である正純が一番驚き、残念に思ったのではないでしょうか。
本多正純の子孫の現在は?
本多正純の子孫はどうなったのでしょう?
現在までその系図は続いているのでしょうか?
歴史を調べると、正純の配流の際、
息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されています。
正勝は1630年、長い幽閉生活で健康を害し、
35歳で亡くなりました。
正勝の嫡男・正好は1623年に生まれましたが、
同年の本多家改易により、
親類である大垣藩主戸田氏鉄のもとに身を寄せます。
その後、1657年に旗本・安藤直政の招きで客臣となり、
武蔵国小平(現在の東京都小平市)に住んだとされています。
この地で正好は苗字を和田と改めて代官職についており、
1702年、80歳で亡くなりました。
旗本の家臣として家を再興した江戸時代の和田家は代々代官職を務め、
のちに木村と改姓。
木村家は江戸屋敷用人・御山目付などに就任していました。
この木村氏は、木村正英の代で明治を迎え、
本多正純の血脈を現代まで伝えています。
徳川政権の重鎮、
今でいえば大臣や官房長官クラスの大物だった正純の子孫が、
いち代官家として細々と存続したことは、
なんだか大幅な格落ち感もあります。
騒動に巻き込まれた正純の子孫はたまったものではありませんね。
とはいうものの、
家を変え、名を変え、そして血筋は残す、
これも策略家本田正信・正純の血統所以かなって思いました。
行きすぎる策略は身を滅ぼすかもしれません、
そんなことを、この親子から教えてもらいました。
読んでくださりありがとうございました。
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