紫式部、源氏物語の作者として有名ですが、
結婚していたのかどうか謎でした。
調べてみたら、若い頃に歳の離れた男性と結婚していたことがわかりました。
藤原宣孝という貴族が、紫式部の夫です。
二人の仲はどうだったのか、子どもはいたのかなどを
まとめてお伝えします!
藤原宣孝(ふじわらののぶたか)とは?
藤原宣孝は、紫式部の夫です。
とは言っても、紫式部を知っていても
藤原宣孝を知っている人は多くないと思います。
私もその一人・・・
なので、どんな方なのか
まずはプロフィールを紹介します。
藤原宣孝のwikiプロフィール
藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)
生誕:不明
没年月日:長保3年4月25日(1001年5月20日)
官位:正五位下、右衛門権左
妻: 藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘、紫式部(藤原為時の娘)
子: 隆光、頼宣、隆佐、明懐、儀明、大弐三位、藤原道雅室
wikipedia
藤原宣孝は平安時代中期の貴族です。
当時の天皇(花山天皇→一条天皇)に仕えたとされています。
どうやら、紫式部のお父さんである
藤原為時とは従兄弟らしいですね。
つまり、親子ほどの歳の差があった
ということです。
この藤原宣孝、清少納言が著した枕草子に
エピソードがあるそうです。
それは、「御嶽精進の逸話」というもので、
藤原宣孝が息子の隆光と共に御岳詣、金峯山詣の時のことです。
当時は、
このお詣りはどんな高貴な身分の人であっても
質素な身なりで行うものとされていたらしいです。
しかし、この藤原宣孝は
そんなのは、つまらない言い伝えである、と
華やかな出立でお詣りをしたというのです。
神様も綺麗な服の方が喜ぶだろう、と
濃い紫の袴、白い狩衣、山吹の飾りを身につけていたとのこと。
その姿を見た人たちは、
こんな姿でお山に詣でる人は見たことないと
大騒ぎだったらしいです。
しかし、その後筑前守という高い位に
任官されたため、
宣孝の言動は正しかった、、と
またまた噂になったそうです。
そんなエピソードからは
藤原宣孝はかなりおおらかな
物事にとらわれない人物と想像できますね。
藤原宣孝は紫式部よりも20歳も年上だった
藤原宣孝は、紫式部の父とは従兄弟だったと
先に書きました。
そのことから、だいたい20歳くらいは
年上なのではないかと見られています。
紫式部と同年代の息子もいたとのことでした。
たびたび、紫式部に手紙を送ったとのことなので、
面識はあったでしょうし、
幼い頃から目をかけていたとも考えられますね。
紫式部は998年に藤原宣孝と結婚しています。
実は、それまでに何度となく
求婚をして断られていたそうです。
私が思うに、
年上だからというのもあったでしょうが、
すでに3人の妻がいた宣孝、
小さな頃から知っているおじさんとしての宣孝を
結婚相手と見るのは難しかったんじゃないでしょうかね。
そんな経緯を経て、
紫式部は藤原宣孝と結婚をします。
求婚の意を込めて藤原宣孝が詠んだ歌があります。
「けぢかくてたれも心は見えにけむ
ことは隔てぬ契りともがな」 意味↓
「親しくなって私の思いもわかってもらえたでしょうから
できるなら隔てのない仲になりたい」
紫式部は
あまりいい返事を返していませんでしたが、
とうとうその気になって書いた歌がこちらです。
「峯寒み 岩間氷れる谷水の
ゆくすゑしもぞ深くなるらむ」意味↓
「冬の峯は寒くて岩間の谷川も凍っていて浅いが、
春になれば解けて深くなっていくでしょう」
ここからは、
氷が溶けてゆるむ気持ちや
仲も深まっていくのではないかという期待が
感じ取れますね!
そうなると気になるのは
夫婦仲はどうだったのか?
てことですよね。
それは次に続きます。
藤原宣孝は紫式部の夫、結婚生活はどうだったの?
藤原宣孝と結婚した紫式部。
この頃の結婚というのは、
夫の通い婚でした。
紫式部が住む邸に
藤原宣孝が通い数日間過ごして帰っていく
というスタイルです。
しばらくは
夫婦の仲睦まじく暮らしていたようです。
しかし、この方、何人も奥さんがいますよね。
つまりは、浮気性だったのではないかと思うのですが、
他の女性のところにも通うようになってしまいます。
つまり、飽きられてしまった・・・
これは悲しいですよね。
結婚して、浮気が出てからのことなのか
それ以前のことかははっきりしないのですが、
「文散らし事件」というのがありました。
それは、藤原宣孝が
紫式部が書いた文を他の女性に見せてしまったことが発端になっています。
そのことを、強く憤った紫式部!
当然ですよね!
今でいうと、
自分とのラインチャットを
他の女性に見せたということですから、
あんた何するのーーー
って怒鳴り込みたくなる事件です。
紫式部はこの件に関して、
自分が書いた文を全て返すように迫ったとのことなんです。
この頃は、
文を全部返す、取り上げるということは
「絶縁」をも意味していたとのこと。
仲良しと思っていた
紫式部と藤原宣孝、深い亀裂が入ってしまった事件です。
そうではあっても
紫式部が夫を待ち侘び読んだ歌も
多く残されています。
女性として、愛を失う悲しみを知ったことは
後の「源氏物語」に反映されているかもしれないですね。
藤原宣孝と紫式部の子どもはいたの?
藤原宣孝と紫式部の間には
一人女の子が生まれています。
この女の子、藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし)といい、
とても優秀な女性に育ちます。
後に、三十六歌仙のひとりにも選ばれ、
小倉百人一首にもその歌が残っています。
そして、紫式部が仕えた藤原彰子の孫である
後冷泉天皇の乳母も務めています。
紫式部は、子育てをしながら、
「源氏物語」を書き上げたと言われています。
母の文才、教養を受け継いで
当時の女性としてはかなりハイスペックであったことがうかがえますね。
藤原宣孝の死因は病気?
藤原宣孝は、1001年に疫病にかかって
なくなってしまいます。
紫式部との結婚生活は
たった3年という短いものでした。
その後、紫式部は夫をとっていません。
ここからは、
なんだかんだいっても藤原宣孝のことを思っていたから、かもしれません。
もしかしたら、
男なんてこりごりって思ったのかもしれません。
紫式部が夫を見送った時に読んだ歌があります。
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」意味↓
「荼毘に付されて煙となって消えてしまった夕べから、
陸奥国の塩釜の浦でたなびくという塩焼きの煙までもが
懐かしいと思えてしまう・・・」
煙に思いを馳せる言葉の端々から
とてもその死を悲しんでいることが伝わります。
紫式部にとって、藤原宣孝はとても大切な存在だったのでしょうね。
読んでくださりありがとうございます。
*「光る君へ」の人物相関図はこちらです
https://taigasa.com/hikarukimiejinbutusokanzu/199/
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