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三浦按針の子孫の現在は?何をした人か家康との関係も紹介します!

どうする家康
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17世紀前半に徳川家康の通訳兼ブレーンとして

活躍した三浦按針ことウイリアムアダムス。

今回はアダムスが具体的に何をしたのか、

また家康との関係性などを紹介します。


ウイリアムアダムス(三浦按針)は何をした人?

三浦按針(みうらあんじん)ことウイリアムアダムスは

1564年、現在のイギリスで生まれました。

12歳で船大工に弟子入りした後、

22歳の時に海軍に入り、

貨物船の船長として実際の戦闘にも参加しています。

その後民間の船会社に入って船長を務め、

1598年、アジア方面行きの貿易船団の航海に参加します。

航海は困難を極め、

伝染病の流行や原住民の襲撃などに巻き込まれ、

出航時に5隻だった船は、

アダムスが乗っていた船だけに減ってしまいました。

1600年4月、アダムスらの船はやっとの思いで

豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)に漂着しました。

アダムスらは長崎奉行によって身柄を拘束され、

徳川家康のもとに護送されました。

家康はアダムスを気に入り、身柄を釈放して江戸へ招きました。

アダムスは帰国を願い出ますが家康に引き留められ、

逆に通訳兼顧問として採用されます。

家康の依頼で、アダムスは家康の家臣に数学を教えたり、

船を設計して建造するなどして活躍しました。

平凡な船乗りとして生活していたアダムス。

大海原への冒険心から大変な航海に参加する勇気は

素晴らしいと思います。

また、アダムスの才能を見抜いて重用した家康の観察眼はさすがだといえます。

ウイリアムアダムスと家康との関係は?

ウイリアムアダムスと家康との関係は、おおむね良好だったようです。

家康は1607年、アダムスの仕事ぶりをますます気に入り、

武士旗本として取り立てて現在の神奈川県に領地を与え、

さらに三浦按針(みうらあんじん)という日本名も与えました。

姓の「三浦」は領地のある相模国三浦郡にちなんでおり、

「按針」の名は、アダムスの本職である水先案内人の意味です。

1613年にイギリス東インド会社の船であるクローブ号が

交易を求めて日本に来航した際は、

その一行に付き添い、家康らとの会見を実現させ、

貿易を許可する朱印状を取得するなどの手助けをしました。

1614年のクローブ号帰還の際には、

一緒に帰国できる許可が日英両方から出たのですが、

クローブ号司令官と馬が合わなかったため、帰国を見送っています。

せっかくイギリスに返るチャンスがあったのに、

司令官の事が嫌いだったというだけで帰国の船に乗らなかったアダムス。

本当は日本での居心地がよかったのかも知れませんね。

ウイリアムアダムスの最後は?

クローブ号一行が去ったあと、

アダムスは長崎県平戸にあるイギリス商館の仕事を手伝いました。

家康の絶大な信頼をもとに

日本での生計を保っていたアダムスでしたが、

1616年4月に家康が亡くなってからは、

その前途に暗雲が立ちこめます。

家康の跡を継いだ二代将軍・徳川秀忠や江戸幕府の幕臣たちは、

海外との貿易を幕府に一元管理する目的で、

貿易地を長崎と平戸の二港のみに制限しました。

アダムスは何度もこの方針に反対を表明しますが相手にされず、

また秀忠との直接会見も叶わず、

アダムスの発言力は低下していきました。

その後の按針の幕府での役職は天文官のみとなり、

幕府が鎖国政策を強める中、

秀忠の嫡男である徳川家光らにも警戒されました。

アダムスは失意のうちに、

1620年に現在の長崎県・平戸で亡くなりました。

1637年の島原の乱以後の幕府による猛烈なキリスト教弾圧の中で、

外国人墓地の破壊が行われたため、

埋葬地の正確な場所ははっきり分かりませんでした。しかし、

「按針墓」としてひっそりと守り伝えられてきたという墓から、

1931年に遺骨の一部が発掘されました。

家康という強力な後ろ盾を失うとともに、

幕府の政策転換に翻弄されたアダムス。

結局イギリスに帰ることもできず、

その最後は孤独で虚しいものだったのかもしれませんね。

三浦按針の子孫は?樹木希林との関係があるの?

日本での滞在が長引く中、

帰国を諦めつつあったアダムスは、

1602年頃にお雪という女性と結婚したとされています。

しかし、お雪という名前は

1973年に出版された小説『海のサムライ』に掲載されていたものが

誤って広まったものだとされており、

厳密には夫人の本当の名前は分かっていません。

この夫人との間には、息子・ジョゼフと娘・スザンナが生まれています。

しかし、この2人についての詳しい記録は残されておらず、

その子孫がいたかどうかも判明していないため、

現在に続く子孫がいるかどうかも分かっていません。

亡くなられた女優・樹木希林の父親は

もともとアダムスの子孫の三浦家の生まれで

婿養子に来たとも言われており、

NHKのドキュメンタリー番組で、

そのような趣旨の番組が放送されたようです。

とはいえ、前述のように

アダムスの日本での子孫について記した明確な資料は無く、

真相は謎のままとされています。

アダムスの子孫は結局どうなったのか。

日本国内のどこかでひっそりと暮らしたのか、

幕府の鎖国政策とともに国外追放されたのか。

非常に気になるところですが、これも歴史の謎というものなのかも知れません。

読んでくださり、ありがとうございました。

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