PR

渡辺守綱の子孫は現在も!槍の名手で家康に重宝された武将の最後

どうする家康
記事内に広告が含まれています。

槍の名手として永らく徳川家康に仕え、

その功績からのちに酒井忠次、大久保忠世らと並ぶ

徳川16神将の一人に挙げられた渡辺守綱。

今回は渡辺守綱の生涯と最後、また子孫が現在まで

のこっているのかなどをご紹介します。


渡辺守綱の子孫の現在は?

守綱の子孫は三河国寺部(現在の愛知県豊田市)に

1万石の領地を与えられ、尾張藩の家老家として続きました。

守綱の嫡男・重綱の五男・吉綱に始まる分家は、

和泉国伯太藩(大阪府和泉市)で1万3000石の大名となりました。

本家、分家ともに栄えるって結構な名誉ですよね!

これは子孫たちにその才覚が備わっていたとも

考えられますね。

さらに、この系統は長く続き、

第11代の渡辺章綱の代で明治を迎えるのです。

江戸時代を生き延びたお家の一つなのですね。

ただ、その子孫が現在どうなっているかはわかりませんでした。

同じく分家には、守綱の三男・宗綱を始祖とする旗本で、

幕末には田安徳川家および一橋徳川家の家老を務めた渡辺図書家があります。

同じく旗本・渡辺大隅守綱貞家、守綱の弟・渡辺半十郎政綱に始まり、

代々尾張徳川家で年寄等の要職を務めた渡辺新左衛門家もあります。

守綱の三男・成綱から始まり、新左衛門家と同じく代々尾張藩の要職を務めた渡辺源五左衛門家や

紀州徳川家の家老を務めた渡辺若狭守家や渡辺主水家などがあります。

このように、守綱の子孫は各地域に分散しており、一族が大きく繁栄したことが分かります。

徳川16神将の中でも、ここまで子孫が栄えた人は少ない方かもしれません。

私は、以前、四天王のその後を記事に書いて投稿しましたが、

こう、たくさんの家に別れて存続した方はいなかったですね。

歴史上、それほど名前を聞かなかった武将なんですが、

このように長い年月、続いている家系があることにとても驚きました。

渡辺守綱の槍の名前、名手として活躍

守綱が使用したと言われる槍の名前は「銘広助」という

とても大身の槍で、刃の長さが75.5cmもあるそうです。

守綱自身も「槍の半蔵」の異名を持ち、戦場で大活躍しました。

最初にその「槍」で敵将を討ち取ったのは、

1561年8月、今川氏真が支配していた長沢城を攻撃した際です。

城を守備する敵将・轟木武兵衛が最初で、

守綱はこの軍功により一躍名を知られるようになりました。

翌1562年9月には、徳川方の城であった御油城が今川軍に攻められ、

郊外の戦いで酒井忠次の部隊が総崩れになったところを守綱が何とか踏み止まり、

得意の槍で敵を突き伏せつつ奮闘して徳川軍の主力を逃がしたと言われています。

槍だけで、崩れていた軍勢を立て直し、勝利へときっかけを作ったなんて

すごい武人だなと惚れ惚れしますね。

渡辺守綱は、この戦いでの奮戦ぶりが家康に認められたのです。

その後のあらゆる戦いで守綱は、槍一本を持って戦い続け、

姉川合戦・三方ヶ原合戦などでも活躍。

渡辺守綱は、徳川家康の危機を、なん度も救ったのですね。

1590年には武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)に

3000石の領地を与えられます。

1600年には長年の功績により1000石を加増、足軽100人の組頭となりました。

 これらのエピソードから、守綱が体力と運動神経に優れ、

勇気も兼ね備えた武闘派の武将だったことが窺い知れます。

戦の多い時代に、自身の能力を存分に発揮し、

出世した渡辺守綱、後世まで名が轟く一人となったことは

ご自身も誇らしく思うでしょうね。

渡辺守綱は徳川16神将の1人家康との関係は?

徳川16神将は、

徳川家康に仕えて江戸幕府の成立に大きく貢献した

16人の武将を顕彰した呼び名の事です。

家康を仏に見立て、

仏教の4天王・12神将の数字を合計して16神将としたものと思われ、

守綱はその一人として数えられています。

そうはいっても、過去には家康と対立した時期もありました。

1563年、三河で一向一揆が起こった時、

熱心な一向宗の信者であった守綱は、

父とともに一揆側につき、家康に背くことになります。

当時の松平氏(のちの徳川氏)の家臣には、

一向宗の門徒が複数おり、一揆側につくのは守綱だけではありませんでした。

このことにより、守綱と家康との関係は悪化し、家臣をクビになりました。

しかしのちに罪を許されて帰参。

その後は一所懸命に家康に仕え励みました。

その後1600年の関ヶ原の戦いでは、足軽100人を預けられ、

下野国小山から関ヶ原へ向かいました。

この時の功績が評価され、

守綱は家康から「南蛮胴具足」という南蛮風の鎧を授けられました。

決して身分が高かったわけでもなく、

一軍の将でもなかったのに、徳川16神将に選ばれているところに、

守綱個人が武人としていかに高く評価されていたかがわかります。

そして、戦乱の時代だったからこともありますが、

一兵でも主君のために働き、手柄を挙げれば

出世できるのだということを知らしめることにも

なったんじゃないかなって思いました。

渡辺守綱の最後は?お墓はどこに?

渡辺守綱は1608年、

家康の命によって尾張藩主に任命された

家康の九男・徳川義直(よしなお)の付家老として栄転しました。

武蔵国の4000石に加えて

尾張国岩作(現在の愛知県長久手市)で尾張藩より5000石、

三河寺部で幕府より5000石を与えられ、

あわせて1万4,000石の領主となったのです。

そして、寺部城を居城としました。

6年後の大坂夏の陣のとき、

74歳になっていた守綱は義直の側近として、

またしても槍を持って戦いに備えました。

このことを知った時も驚きました。

70代で戦の前線に立つ、そんなことは私には

到底考えられなかったからです。

つくづく、すごい武人だなあと感じました。

初陣から57年間、常に戦場の第一線に立ち続けた守綱は、

家康の死の4年後に、

1620年4月、79歳の時、名古屋で病死しました。

お墓は、現在の愛知県豊田市にある守綱寺に設けられました。

高齢になっても、戦場で槍を持ち続けた守綱。

数々の戦に参加しながら、命を落とすことがなかったとは

長寿の神様にも認められたのかもしれませんね。

病ではありましたが、天寿を全うしたことは、

当時の武将としては、幸せな事だったのではないでしょうか。

渡辺守綱、なんとなく調べてみたのですが、

すごい生涯に驚きの連続でした。

読んでくださり、ありがとうございます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました