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南光坊天海とは?明智光秀説や家康との関係、日光東照宮を作った僧正の伝説も!

どうする家康
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南光坊天海とは?

あまり聞き馴染みのない名前ですが、

徳川幕府が長年続いた理由に

この南光坊天海の存在があったといいます。

家康を神格化し、日光東照宮を作ったのも天海です。

一方、正体は明智光秀という説や

家康関係の伝説も事欠きません。

南光坊天海とは何をした人なのかをまとめました。


南光坊天海は何をした人?

南光坊天海は、天台宗の僧侶であり、

徳川家康から家光まで仕え、

江戸時代初期の徳川幕府を陰で支えた人です。

出身は陸奥國、現在の福島県の生まれらしいです。

しかし、出自については

あまり明らかにされていないとのことで、

そのため、明智光秀が天海になったという説が

生まれたとも言えます。

織田信長の攻撃を受けて

壊滅的な状態となった比叡山の復興にも

力を注いでいます。

このほかにも僧侶として、

日本で唯一の一切経を印刷・出版を手がけました。

1648年に完成した「天界版大蔵経」は歴史に残る

日本の印刷物としても重要なものとされています。

僧侶であり、幕府の参謀であり、文化人でもあった南光坊天海、

今の世でも珍しいくらい

長生きをしたのだそうです。

南光坊天海は何歳まで生きた?

南光坊天海は、108歳で没したと言われています。

生まれた年は、1536年ごろで

亡くなったのは1643年11月13日です。

徳川家康が生まれた年が1543年なので、

天海僧正は約7歳年上ということになります。

南光坊というのは、尊号のことであり、

一般的には天海、天海僧正と言われていますね。

死後に授けられた諡号が

慈眼大師と言います。

これも後に述べるように

明智光秀説の理由となっているそうです。

南光坊天海が

驚異的な長寿を全うできたのは、

健康的な食生活と精神の安定を心がけていたからと言われています。

天界の残した言葉(歌?)に

「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」

があります。

これは、

気を長くもってよく働き、異性関係はほどほどで少食、広い心で接しなさい、

という意味に捉えられますね。

もう一言

「長寿は粗食、正直、日湯、だらり、ときおり下風あそばされかし」

長生きのためには、粗食で正直、お風呂に入ること。

のんびりと暮らし、時にはオナラもするといいよ

という意味と考えられます。

これらは、今にも通じる教えだなって思えますね。

南光坊天海と家康の出会いは?

南光坊天海は1599年に北院(現在の喜多院@川越市)の住職となります。

そして、家康の命を受け、

参謀として朝廷との交渉や寺院とのやりとりを

担うようになります。

しかし、他の説によると

徳川家康の北条攻め(1590年)の際には、

すでに家康の陣中にいたというものもあります。

天海は僧侶でありながら、

政治的手腕にも優れ、家康の近くに仕え

様々な相談や助言に応じていたと見るものが多いです。

特に、北条攻めの後、

家康は江戸へと移ることになりますが、

当時の江戸は超田舎!

荒地と湿地ばかりで

そこを収めるといっても

1から整備をしなければいけない状態でした。

その江戸の街づくりを

家康のそばで指導したのが天海だったそうです。

天海は陰陽道にも深い知識を持っていました。

そこで、その知識を江戸のまちづくりに活かしたのです。

江戸城の設計もその陰陽道の原則「四神相応」に則っとり、

東に川、西に道、北に山、南に海がある

立地を選び作られたと言います。

また、鬼門に当たる位置に、

寛永寺、上の東照宮を配置したのも

その計画の一つだったそうです。

江戸幕府が長く栄えたのは

幕府創立の初期に

深い知識と経験を持った参謀が

力を振るったことも要因であったと言えるのですね。

天海が、家康と正式に対面したのは

1610年の駿府であったと記録には残っています。

家康が豊臣家との対立において

様々な相談や決定ごとに関与したと言われています。

晩年の家康にとって

天海はなくてはならない懐刀のような

存在だったのでしょうね。

南光坊天海が日光東照宮を作った!

南光坊天海は、

家康が危篤に陥った時に

死後の対策も任されたそうなんです。

その中でも重要だったのが、

家康をどういう位置付けにするかということ。

現在家康は、

日光東照宮に祀られ、「東照大権現」と称されています。

この名をつけ、日光東照宮を作ったのが天海だったのです。

この名をつけるにあたっては

徳川家の中では紛争があったそうです。

しかし、家康を神と崇める存在とすること、

そして彼の政治的な遺産を後世に伝えることを目的とした時に、

重要なシンボルとしてこの名称が選ばれたのだそうです。

徳川家康を神とする、

それは織田信長にも豊臣秀吉にもできなかったことでした。

それゆえに

徳川家康は歴史上、類稀なるリーダーとして

今でもその名を轟かせているとも言えるのだなあと思いました。

天海僧正を側に置けた徳川家康は

なんともラッキーな人だったと思います。

南光坊天海は明智光秀といわれる理由

南光坊天海は、生き延びた明智光秀である、という説があります。

山崎の戦いの折、生き延びた明智光秀が

徳川家康の庇護を受け、

南光坊天海として暗躍したというものです。

それが事実かというと

現在ではそうではないであろうという見方が大きいようです。

しかし、そんな噂が作られた理由もあるのです。

ひとつ目には、

家康を祀った日光東照宮近くに広がる明智平

という地名をつけたのが天海であったということです。

なぜ無関係なら、明智の名をつけたのか?

ということがあります。

私は偶然、或いは明智の関係者?

くらいは想像しますが、

この理由だけでは信憑性に欠けると思います。

そこで、ふたつ目の理由です。

南光坊天海の墓所が、

明智光秀の居城があった

滋賀県大津市坂本の慈眼堂であるということです。

そもそも、この慈眼という名も

明智光秀の墓所がある慈眼寺と重なることも

疑惑の一つだそうです。

先に、天海は108歳まで生きたと書きましたが、

明智光秀もその生誕は定かではないものの

同世代の人物であったと言います。

私は、この年齢からの推測は

ちょっとだけなるほどなーと思えます。

そして、もうひとつ私が気になるのが、

豊臣との大坂の陣のきっかけとなった

方広寺の鐘銘に難癖をつけたのが

天海というところなんです。

明智光秀は、自分を逆賊として

討ち、天下を取った豊臣秀吉を

相当恨んでいたと思うのですよね。

その恨みをここで晴らそうとしたとも

言えるんじゃないかと、、。

とは言え、

かなりの荒唐無稽な説でありますよね。

まあ、歴史のミステリーの1つとして

楽しむくらいがいいのかなって思います。

南光坊天海について、

調べるごとに興味深い方でした。

お読みくださりありがとうございます。

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