難病を患いながら戦国・安土桃山時代を生き延び、
関ケ原の戦いで散っていった大谷吉継。
今回はその生涯や石田三成との関係、
最後に残した名言などをご紹介します。
私は、大谷刑部が病気を患いながらも、
石田三成との友情を果たし戦う姿に感動しました。
大谷吉継の病気はハンセン病だった
大谷吉継は業病を患っており、
後遺症として顔面が大きく変形していたと伝えられています。
業病とは仏教用語で、
前世の罪業を原因とする病として忌み嫌われていた病気という意味です。
難病・または不治の病の総称として使われました。
特に見た目に著しい変化を起こすハンセン病は、
近代になるまで業病の一種として忌み嫌われていました。
そのため、断定されているわけではありませんが、
吉継がハンセン病であったという説が有力です。
『本願寺日記』では、
吉継がライ病(ハンセン病のこと)の患者であったとする説を載せています。
多くの文学作品で、吉継は変形した顔を隠すため、
白い布で顔を覆った姿で描かれることも多いですが、
江戸中期頃までの古文書にはこの描写は存在しません。
後世に創作された軍記物語がこのイメージを広めたようです。
難病に冒されたうえ、その原因を前世の行いのせいだとされ、
忌み嫌われていた吉継。
その苦しみはどれほどのものであったか、想像するに余りありますね。
悲しい・・・・
大谷吉継と石田三成の関係
大谷吉継と石田三成の関係は、
唯一無二の親友と言っていいでしょう。
多くの大名から嫌われていた三成にとって、
吉継は数少ない味方でした。
二人の間には深い友情が存在したとされ、
友情意識が薄かった戦国時代において、
両者の関係は美談とされました。
二人が仲良くなった理由は、両名が同世代であり、
出身も同じ近江国だったためという説があります。
また1587年、大坂城で開かれた茶会において、
秀吉に招かれた諸大名が茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった際、
吉継が口をつけた茶碗だけは誰もが嫌い、
吉継の後の人達は、病気の伝染を恐れて飲むふりをするだけだったのに、
三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み、
吉継に気軽に話しかけました。
その事に感激した吉継は、
関ヶ原において共に決起する決意をしたと言われています。
当時の医学では治療できない、
原因不明の奇病に冒されていた吉継を、
差別すること無くほかの大名と同じように扱った三成。
その優しさが、二人の絆を深めていったのかも知れません。
ここに、冷徹とされている石田三成の別の表情も見られます。
私は、このエピソードが気に入っています!
大谷吉継の最後の名言とは
1600年、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いがあると主張し、
上杉討伐軍を起こしました。
家康とも仲が良かった吉継は、
領地である越前国(現在の福井県)から兵を率いて、
徳川方に参加するため出兵しましたが、
行軍の途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄ります。
吉継はそこで三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられたようです。
これに対して吉継は、3度にわたって
「無謀であり、勝ち目はない」と説得しますが、
三成の固い決意を知り熱意にうたれると、
負けると分かっていながらも息子達と共に三成方につき、
西軍に所属しました。
関ヶ原の戦闘で敗色濃厚となり自害する際、
吉継は小早川秀秋の陣に向かって
「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん。」と言って切腹しました。
秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に
20歳の若さで亡くなりましたが、
この原因を吉継の祟りによる狂乱死だとする噂があります。
負ける戦だと分かっていながら友情を選び、
仲間のために戦って潔く死んでいった吉継。
この命がけの絆は、まさに本物の関係性だったと言えるでしょう。
現代人の中で、
これほど固い友情で結ばれた友達を持っている人はどれくらいいるのか、
深く考えさせられるエピソードですね。
この最後の名言からは、
人としてのあり方をも問われているように思えました。
大谷吉継の子孫、現在は?
大谷吉継の子の大谷吉治は
関ヶ原の戦いの後に浪人となり、
慶長1614年の大坂冬の陣では、
豊臣方として大坂城へ入城します。
そして、翌1615年の大坂夏の陣で
徳川方の軍勢と戦い、討死しました。
その子孫は武士をやめて農家になりましたが、
後に直系は絶え、他家から養子を迎えて存続しています。
大坂の陣のあと、
吉継の孫だと称する大谷重政は越前松平家に仕官し、
その子孫は福井藩家老に昇進し、その系統は明治時代まで続きました。
吉継の娘は真田信繁の妻になったとされていますが、
それを証明できる一次史料はありません。
どの子孫の系統かは分かりませんが、
幕末の会津戦争に際して会津藩で組織された白虎隊士2番隊の隊員で、
飯盛山で自害したとされる津田捨蔵は、
吉継の子孫と言われています。
津田家には代々吉継の甲冑が伝来し、
捨蔵はその鎧を着用すると三度宙に躍り上がり、
敵の首を斬る練習をしたとされています。
子孫(かどうかは定かではないものの)にしても
自分が信じるもののために命をかけるところが
共通しているなあと感じました。
大谷吉継が亡くなったあと、その子孫はばらばらに拡散しましたが、
一部は明治まで存続していることから、
現代にも子孫が残っているかもしれませんね。
いずれ、その証拠なども発見されるかもしれません。
その時、彼の行動が改めて評価されるようにも思います。
私が子どもの頃は、
石田三成を豊臣を唆した悪人という説もありました。
しかし近年は、石田三成をはじめとした
西軍の武士のあり方を見直す傾向もあると思っています。
大谷刑部もその一人になりそうです。
読んでくださりありがとうございました。
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