長徳の変とは長徳元(995)年に起きた政変です。
この変によって、右大臣藤原道長は自らの権力を確たるものにした一方、
変を画策した藤原伊周、隆家兄弟は失脚。
2人の妹の定子も髪をおろす結果となりました。
簡単にいうと、それまで権力を牛耳っていた
藤原道隆、伊周親子から
藤原道長へと政治の中心が映るきっかけとなった事件なのです。
それでは、もう少し詳しく見ていきます。
長徳の変をわかりやすく解説!
長徳の変は、先述したように、
藤原隆家、伊周親子から藤原道長へと
権力が移る大きなきっかけとなった事件です。
それまでは、
藤原兼家から関白職を譲り受けた藤原隆家が
一条天皇に娘の定子を入内させ、
長男伊周を21歳の若さで内大臣へ、
次男隆家を権中納言へ抜擢し、
道隆一族の座を揺るぎないものにしていました。
道隆没後も、そのまま伊周と定子が一条天皇を通じて
権力を強めていきました。
しかし、道隆の弟藤原道長が
内大臣の内覧を受けたことから
このバランスが微妙に崩れていったのです。
そんな時に起きたのは「長徳の変」でした。
伊周が通っていた女性(藤原為光の三女)の家に同居している
四女の藤原儼子(たけこ)目当てに、
花山院(元の花山天皇)が会いにいった時のことです。
伊周は、自分が愛する女性を奪われたと勘違いして、
弟の隆家と共に花山院を襲い、弓矢で射るなどをしたのです。
天皇は、無事でしたが従者が殺されるという悲劇になりました。
出家の身であれ元は天皇です。
初め、体裁を気にした花山院は黙っていたのですが、
こんなスキャンダルを放っておかないのが
平安の貴族さんたちだったんですね。
さらに、東三条院であった藤原詮子を呪詛したという事件や、
大元帥法(だいげんのほう)修法密告事件も起こり、
伊周、隆家の存在を面白く思っていなかった道長が、
これらの事件を利用して、2人を左遷させたのです。
このことによって
藤原道長は名実ともに政治のトップへと上り詰め
藤原道隆の一家は表舞台から姿を消すことになりました。
これ以上ないという恵まれた環境からスタートした
藤原道隆の一家でしたが、
こんなにあっけなく崩れていくとはと
驚いてしまった事件です。
縁戚であれ、敵と目されると、
どんな仕打ちになるのか怖い関係と思いました。
事件の発生理由は、割におバカな理由で、
そんな確認もできない兄弟だったからこそ、
左遷されてしまったのは仕方がないんだろうなあとも思います。
それでは、関係者について
もう少し詳しく補足していきますね。
長徳の変は花山院の襲撃から始まった
花山院が、長徳の変の発端だったとは・・・
花山院とは?が気になる方は、
先にこちらの記事もお読みくださいね。
花山院は、円融天皇の甥で第65代の天皇でした。
若くして即位したものの、
性癖に問題があり、
溺愛した后の祇子(よしこ)が早逝したことに心を痛め
藤原道隆の弟道兼に唆され、出家する羽目になってしまった方です。
この花山院がなぜ、事件のきっかけになったのかというと、
藤原伊周が自分の愛する女性を横取りされたと思ったからなんです。
だけど、真相はそうではなくて
花山院は同じ家に住んでいた儼子の元に通ってきてたんです。
この儼子は、祇子の妹でした。
おそらく、顔や姿に面影が似ていたのでしょうね。
祇子命の花山院は、それが恋しくて通っていたと考えられます。
しかし、元は天皇とはいえ、出家した身、
つまりは僧侶です。
女性の家に通っているなんて大ぴらにできなかったんでしょう。
だから、コソコソと通っていて誤解を受けたのではと私は思っています。
この花山院は、いろいろなところに顔を出しますが、
ある意味、トラブルメイカーちゃんだったのかもしれないですね。
とはいえ、愛する祇子を忘れられず
通っていたという男心は
多めに見て差し上げたいと思います。
長徳の変は、右大臣道長の権力を強めた
長徳の変で一番得をしたのは藤原道長でしょう。
そもそも、藤原兼家の息子であっても
五男ですからね、、、。
権力を手にするなど、誰も考えもつかない立場でした。
その道長が、運やタイミングも味方をしたのかと思いますが、
最後に追い落としたいと思っていた(と想像する)
藤原伊周、隆家兄弟を失脚させるラッキーチャンスでした。
2人に連なる中関白家のものたちを
遠方に配流したり、役職を剥奪したり、という処断をしたのです。
そして、この事件後に藤原道長は左大臣になります。
さらに、999年に一条天皇に自分の娘彰子を入内させ、
天皇の父の立場にも上り詰めます。
「望月の、、」と自分の栄華を歌に残すようにもなるのでした。
長徳の変で定子は出家を決意
長徳の変で一番得をしたのが道長だとしたら、
一番不幸な思いをしたのは藤原定子でしょう。
定子は、当時一条天皇の中宮として
その寵愛を一身に受けていました。
しかし、自分の兄の伊周と弟である隆家が起こした事件により、
結果的には髪を下ろして出家するという選択をすることになってしまいます。
事件が起きた時は定子は解任していたそうなんです。
でも、何かしら思うところがあったのでしょう、
実家の二条宮に戻ってしまいます。
ここで、逃げてきた伊周と隆家を匿うのですが
見つかってしまいます。
髪を下ろしたのはその時と言われています。
さらに、その二条宮が火事で全焼し、
度重なる事件にショックを受けたのか、
母の高階貴子も亡くなってしまいます。
弱り目にたたり目、とはこういうことだと思います。
一人きりになった定子は第一子となる脩子内親王を出産します。
そして、一旦は一条天皇に請われて
宮中に戻るのですが、その立場はそれまでとは全く変わってしまったのです。
私は、25歳の若さで亡くなった定子は、
この政変の一番の被害者ではないかと思います。
*藤原定子については、こちらからお読みいただけます
長徳の変で伊周と隆家は失脚
ここまでさまざまな立場の人から
長徳の変を見てきましたね。
最後は、事件を起こした伊周と隆家の兄弟について解説します。
藤原伊周と藤原隆家兄弟は、
父の藤原道隆の英才教育と強力なバックアップを受け
異例の若さでの出世を果たします。
あまり、二人の評判はよくなかったようではあります。
確かに、親の七光りで権力の座につき
それを振るう人は嫌われますよね。
そこで、父の死と共に二人の繁栄に翳りが見えてくるのです。
叔父である道長が力を強めていくのを見ながら、
きっとヤキモキしていたと思うんですよね。
そして、自分の愛する女性を誰かに奪われた!と
浅はかにも勝手に思い込んで事件を起こしちゃうんだから
頭はいいかもしれませんが、
世の中を渡る知恵や周囲を見ながら判断するといった
思慮深さには欠けていた兄弟と推測します。
そして、事件を起こすのですが、
この後も呪詛などの事件も絡み、
藤原道長より隆家は出雲へ流されます。
出雲権守というお役に就くためという理由はあるものの、
まあ中央から地方への左遷ですよね。
そして伊周は太宰府の長官へと同じく左遷の命を受けます。
しかし、この兄弟は往生際が悪く
仮病を使って定子の屋敷に匿われていたんです。
ついに、天皇から捜索願いが出され、
隆家は見つかって出雲へ送られます。
伊周は一旦逃げるのですが、戻って配流を受け入れます。
こうして、地方でこっそり暮らす。。。となるかと思ったら
翌年には東三条院の病平癒のための大赦により、
二人とも都に戻っちゃうんですよ。
事件ではあるけど、
クーデターと呼べるような大事件とは違うので
権力をひっぺがされて連れ戻された感じですかね。
その後は、道長さんとも仲良くやっていくみたいです。
お騒がせな兄弟ですよね。
以上、長徳の変と関係者がどうなったのかということを
解説いたしました。
最後まで、お読みくださりありがとうございました。
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