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石田和外は最高裁長官(第5代)、桂場等一郎のモデルの業績や妻と子も調査!

虎に翼
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石田和外さんは、昭和9年の「帝人事件」(後述)で、

被告人の無罪を言い渡したことで、

司法界にその名を轟かせた裁判官、後に第5代最高裁判所長官となった方です。

NHK朝ドラ「虎に翼」では、桂場等一郎のモデルとされています。

その石田和外さんの業績や「帝人事件」、家族についてまとめました。

石田和外(いしだかずと)のwikiプロフィール

石田和外(いしだかずと)

生年月日:1903年5月20日

没年月日:1979年5月9日

享年 75歳

出身:福井県福井市

学歴:福井中学校→錦城中学校

   旧制第一高等学校

   東京帝国大学法学部

Wikipediaより

石田和外さんは、福井県庁職員の父である石田龍雄さんと妻のみつさんの間に

明治36年に誕生しました。

お祖父様は、石田磊さんといい、

福井商工会議所の初代の会頭や第九十二国立銀行頭取、

福井市議会議長まで務めていらっしゃいました。

名門のお家の出だったと言えるでしょう。

しかし、石田和外さんが中学生の時に

お父様が他界され、一家で上京することになります。

小学生の時から剣道を始め、

剣道と学業、そして仲間との交友に明け暮れた学生時代を過ごします。

剣道の腕前は、相当なもので、

一刀正伝無刀流の第5代宗家や

全日本剣道連盟第2代会長にもなったほどです。

私には想像もできない世界なのですが、

めっちゃストイックな武術を探究した方と

いうイメージが浮かびます。

大学卒業後は司法省に入り、

刑事裁判官の道に進みます。

この後説明する帝人事件や、

1941年に発生した平沼騏一郎襲撃事件など、

きな臭い事件にも公正な態度で臨み、

後に最高裁判所の長官にまで上り詰めるのです。

偉くなった人は、何かと後ろ暗いこともあるんじゃないかと

私は勘繰ってしまうのですが、

この石田和外さんは、経歴を見る限り、

正しく法を解釈して、裁判に臨まれていた

理想的な法曹人なのではないかと思います。

石田和外が注目された帝人事件とは?

さて、「虎に翼」では、主人公寅子の父をも巻き込む

共亜事件という大事件を扱っていました。

これは、1934年に起きた「帝人事件」がモデルとされています。

この「帝人事件」は、昭和初期の大疑獄事件と言えるでしょう。

なんせ、現職の総理大臣も罪に問われ、

内閣総辞職とまで追い込まれたのですから。

しかし、

この事件は、現在では政治の利権が絡む作り話だったと

見られています。

では、その事件を簡単に解説します。

1934年、「台湾銀行」が所有する「帝国人絹」株の売買に対し、

背任や贈収賄の疑惑を理由に、

台湾銀行幹部や帝人の重役を検察側が検挙します。

その後大蔵省の幹部も収賄の容疑で逮捕され、

政財界への大きな打撃となりました。

この事件を受け、

時の内閣であった、斉藤実内閣は総辞職となり、

16名もの人が背任罪や贈賄罪で起訴されたのです。

容疑者は、全員自白したため、

予審では有罪と目されていました。

彼らは、なんと200日も拘留され

検察の強引な取り調べがあったと言われており、

現在の観点からすると甚だ怪しい感じがします。

裁判では、正式な株の取引はあったものの、

贈賄であるという決定的な物的証拠は見つかりませんでした。

石田和外さんは、この時に左陪席裁判官として判決文を起案しています。

ここで、事件は事実無根であるということを告げ、

被告全員が無罪を言い渡されます。

この時の名言が

「水中に月影を掬するが如し」

つまり水中に映った月をすくうようなものだということでした。

この帝人事件を陰で操ったのが、

当時枢密院副議長であった

平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)氏(司法官僚出身)と言われています。

これもはっきりはしないのですが、

平沼氏は、情報を知り得る立場にいたものの、

事件そのものに関与したと断定できる証拠はないそうなのです。

結局のところは、真実は闇の中、、という事件といえます。

ちなみに、ドラマでは、寅子の父が事件の被告として描かれていますが、

実際の三淵嘉子さんのお父様である武藤貞雄さんは、

台湾銀行に勤めていたのは事実ですが、

この事件には関わっていないことが明らかになっています。

石田和外、最高裁長官までの業績は?

石田和外さんは、刑事裁判官になった後、

先述の帝人事件の第一審裁判を担当し注目を浴びます。

1943年には、この件にも大きく関わった

平沼騏一郎氏襲撃事件の裁判長を務めますが、

ここでも、軍が要請した裁判非公開を退け、公開するなど、

裁判の原則を貫く姿勢が評価されています。

1963年に最高裁判所の判事に就任し、

1969年、佐藤内閣の時に最高裁判所長官に任命されます。

その時の演説に

「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」と述べたそうです。

まるで、裁判官の鏡!

法と裁判は正しいことを追求するという姿勢が

強く感じられる言葉ですね。

長官となってからも、次々と難しい裁判を裁き、

下した判決が判例となっているものもあります。

1979年に最高裁判所長官を定年退職されますが、

その後も「日本を守る国民会議(当時は元号法成果実現国民会議)」を発足させるなど、

国のためにその身を捧げた人生だったようです。

強い権力がある立場の方が、

正しい方針に則って行動してくださることは

一般人の私からすると超尊敬したいことだと思いました。

そんな石田和外さん、プライベートはどうだったのかも

調べてみました。

石田和外の妻と五人の子供たち

石田和外さんの奥様は、佐々木恭子さんと言います。

恭子さんのお父様は、石田和外さんの剣道の師範だったそうです。

剣道を通じて、お嫁さんを手に入れてしまったんですね。

お子さまは、二男三女の五人です。

長男が、石田量久さん。

現在の商船三井の前身であるナビックスラインの常務を務めていました。

次男が、石田博之さん。

麒麟麦酒にお勤めだったようです。

三人のお嬢さんたちは、それぞれご結婚で家を出てますが、

長女が恵子さん、次女が絲子さん、三女が道子さんです。

全員が一般の方ですが、

みなさん、それぞれ立派なお仕事とご家庭を持っていらっしゃることから

石田和外さんの家庭も円満だったのではないかと

推測しています。

石田和外と三淵嘉子の関係は?

石田和外さんと三淵嘉子さんとの間には、

それほど強い繋がりがあったとはいえません。

ドラマでは、

寅子と桂場等一郎とのやりとりがありましたが、

現実ではあまり接点がないのです。

ただし、三淵嘉子さんが、裁判官採用願いを提出したときは、

まだ、裁判所には女性はいなかったとのこと。

すぐには判事、つまり裁判官として働くことができませんでしたが、

司法省で仕事をすることはできました。

この時に、なんらかの後押しがあった、、とも考えられます。

ドラマ「虎に翼」がなければ、

一生知ることもなかったかもしれない石田和外さんでした。

今回、調べてみて、法の精神を体現されていたような

立派な方なんだなあと感動してしまいました。

自分の使命を持ち、忠実に仕事を重ねたであろう姿に

尊敬の念を強く感じています。

読んでくださりありがとうございました。

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