三淵嘉子さんは、最初の夫である和田芳雄さんが亡くなってから10年後、
41歳の時に再婚します。
そのお相手は判事の三淵乾太郎さんです。
お互いに2回目の結婚でお子さんもいました。
「虎に翼」では星航一として岡田将暉さんが演じます。
どんなエピソードが繰り広げられるのか楽しみなところです。
ここでは、その星航一さんのモデルとなった
三淵乾太郎について解説していきます!
三淵嘉子はいつ再婚した?
三淵嘉子さんは、1956年41歳の時に再婚します。
なんと、恋愛結婚だったんですよ〜。
三淵さんは、1952年に名古屋地方裁判所の判事となります。
これは、初の女性判事としてとても注目を浴びました。
東京では女性が活躍する場もありましたが、
そこを外れるとまだまだ男性優位の社会だったんですね。
1956年5月に東京に戻り、東京地方裁判所の判事となります。
この時、広島と長崎の原爆被害者が、
原爆の是非を問うた通称「原爆裁判」を
担当することになります。
いきなり厳しい裁判の担当となるとは、
三淵さんもびっくりでしょうね。
この年の8月に三淵乾太郎さんと結婚されるのです。
忙しい仕事の最中、どうやって思いを育んでいったのか気になりますね。
三淵嘉子の再婚相手は誰?
三淵嘉子さんが再婚された相手は
先述した通り、判事の三淵乾太郎さんです。
三淵、、というと初代最高裁判所長官の
三淵忠彦さんを思い浮かべませんか?
乾太郎さんは、そのご長男なんですよ。
そもそも、なぜ、三淵乾太郎さんと知り合ったのかというと、
三淵嘉子さんが、忠彦さんの民法本の改訂のお手伝いをしたことがきっかけだったんです。
その時は、乾太郎さんとの交流はなかったのですが、
忠彦さんは退官後の1950年にお亡くなりになっています。
その弔問として三淵邸を訪れた時に
初めて乾太郎さんに会ったということです。
結婚されたのはそれから6年後、、、
恋愛結婚といえど、このあと書きますが、
この頃は乾太郎さんにはまだ奥様がいらっしゃいました。
なので、会った頃は恋愛感情は
全く持っていなかったと思います。
でも、結婚された時はラブラブだったそうなので、
同じ裁判官としての信頼関係から
ここ!というタイミングが来た時に
結婚という道を選ばれたんじゃないかなって思います。
再婚相手三淵乾太郎は妻と子供がいた
三淵嘉子さんが初めて乾太郎さんとあった時は
乾太郎さんには奥様がいらっしゃいました。
祥子さんとおっしゃり、
お父様は水戸高等学校の教授、生沼豊彦さんです。
お二人の間には、
三人の娘さんと一人の息子さんがいらっしゃいました。
夫婦関係はよかったようです。
ちなみにお子さんのお名前は
長女が那珂さん、次女が奈都さん、三女が麻都さん、
長男が力さんと言います。
そんな仲睦まじい家族を持つ三淵乾太郎さんと
なぜ再婚されたのか?
ひょっとして不倫???
なんてことを次に説明しますね。
三淵嘉子と三淵乾太郎はなぜ再婚したの?
三淵乾太郎さんは、三淵嘉子さんと出会った時、
前述のように奥様と四人のお子さんがいらっしゃいました。
それなのになぜ再婚できたのか?
その理由は、奥様の祥子さんが
1955年にお亡くなりになってしまうからです。
病名は分かりませんがご病気でした。
その祥子さんが、
交際には三淵嘉子さんを、、と
望んでいたのだそうです。
ええ、ほんと?
って思いますね。
まさに、ドラマのようですよね。
何か、この人ならば、と思わせるものが
当時の嘉子さんにはあったのかもしれません。
そこが、ドラマではどう描かれるのか、
興味津々なところです。
三淵嘉子は再婚相手三淵乾太郎と仲は良かった?
三淵嘉子さんと三淵乾太郎さんは再婚してからも
とても仲が良かったと言われています。
当時乾太郎さんは、最高裁の調査官、
嘉子さんは名古屋地裁、東京地裁の判事、と
いうお忙しいお身体。
結婚したからといって、
二人でゆっくりできる余裕などなかったようですね。
しかも、お互いに子持ちです。
その子たちとの関係性もなかなか難しいところがありますね。
特に嘉子さんは、長女の那珂さんとは
あまりうまくいかなかったようです。
ズバズバものを言いすぎるからでしょうかね。
芳雄さんも、乾太郎さんに懐いたのかどうか分かりませんが、
姓は和田のままです。
お二人ともある意味、
人権は等しいというお考えなので、
それぞれのペースを尊重していたのかもしれませんね。
なお、嘉子さんは1984年に69歳の若さで
お亡くなりになりました。
やっと夫と二人での生活を満喫できる、、って思った矢先に
病が発覚したといいます。
とても哀しい、残念なことでした。
三淵乾太郎の死因とお墓は?
三淵乾太郎さんは、
三淵嘉子さんよりも9歳年上でした。
ですから、嘉子さんよりも先に退官し
本当にこれから二人の時間を、、という時に
妻に先立たれてしまったのです。
でも、なんということでしょうか。
その翌年、1986年に三淵乾太郎さんは
後を追うかのようにお亡くなりになります。
死因を調べたのですが
情報が見つかりませんでした。
享年は78歳なので、
何かご病気があったのかもしれませんね。
お墓は、小田原にある霊寿院にあります。
ここは、乾太郎さんのお父様忠彦さんが
晩年を過ごした屋敷なのです。
乾太郎さん、嘉子さんご夫婦もここで
引退後の生活を楽しまれる予定だったとのこと、
哀しいですね。
霊寿院には三淵忠彦の墓の隣の「三淵氏の墓」に
嘉子さんと共に眠っているとのことです。
三淵乾太郎のwikiプロフィール
それでは、最後に三淵乾太郎さんのプロフィールを
簡潔にまとめました
生年月日 1906年12月3日
生誕地:福島県会津若松市新横町
没年月日:1985年8月22日(78歳没)
没地:東京都新宿区河田町
住居:埼玉県浦和市
出身校:東京帝国大学法学部
職業 :判事
配偶者:三淵祥子・三淵嘉子
親 父:三淵忠彦
Wikipediaより
戦前、戦後を法曹界のために力を尽くした
三淵乾太郎さんの生涯を追ってみました。
お読みくださり、ありがとうございます。
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