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中宮とは?平安時代の后の序列:皇后、中宮、女御、更衣で格が高いのは?

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平安時代の宮廷は、

天皇の妃も、皇后、中宮、女御、更衣という

序列で織りなす、色とりどりの世界です。

これらの地位がどのような意味を持ち、

宮廷の政治や文化にどのように影響を及ぼしたのでしょうか。

この序列に隠された物語や彼女たちの日々の生活とは?

この記事では、后たちの華やかな生涯を探ります。


平安時代の后には序列があった!その違いは?

平安時代の宮廷は、

まるで色とりどりの花が咲き誇る庭園のようでした。

その中心にいたのが、皇室の女性たちです。

彼女たちの間には、見えない糸で結ばれた

厳格な序列が存在していたのです。

この序列は、まさに彼女たちの生活のすべてを形作るもの。

一番の頂点に君臨していたのは「皇后」です。

天皇の正妻として、彼女の存在はただの象徴ではなく、

政治の舞台においても重要な役割を果たしていました。

現代でも、天皇、皇后両陛下といいますね。

平安時代から、その呼び名は変わっていないとは驚きました。

その皇后の一歩下を行くのが「中宮」です。

皇后に次ぐこの地位は、

天皇の側室の中でも特に重要視されていました。

中宮が子を産むことは、皇位継承において大きな意味を持っていたからです。

そして、「女御」。

中宮よりも下の階級に位置しながらも、

天皇の子を産むことができれば、

その子は皇位継承の可能性を秘めていました。

最も身近な存在である「更衣」は、

日々の世話を担いながらも、

時には天皇の寵愛を受けることで、自らの運命を変えることもできる立場でした。

このような序列は、

現代の私たちには少し異質に感じられますね。

一夫一妻制であるから、

妻であれ夫であれ、序列はありませんからね。

しかし、平安時代の宮廷社会では、

これが日常であり、彼女たちの生きる世界だったのですね。

中宮や女御の存在は、ただの装飾品ではなく、

宮廷の政治や文化に深く関わっていたともいいます。

彼女たちの物語は、今もなお、多くの文学やドラマで語り継がれ、

私たちの心を惹きつけています。

平安時代の宮廷の華やかさと、

そこで生きた女性たちの生活を想像することは、

遠い歴史を身近に感じさせてくれるのではないでしょうか。

それでは、それぞれの立場を

もう少し詳しく説明していきましょう

中宮とは?皇后も同列?

平安時代の宮廷の世界では、

「中宮」と「皇后」の役割は、

しばしば混ざり合いながらも、

実ははっきりとした違いがありました。

皇后は天皇の正妻として、

国の運命を左右するような重要な決断にも関わっていました。

皇后は天皇の母や先代天皇の妻など、

特定の条件を満たした女性から選ばれることが多かったのです。

一方で、中宮は天皇の側室の中でも特に高い地位にあり、

皇后がいない場合にこの名誉ある称号が与えられました。

中宮の主な役割は、皇位継承に関わるもので、天皇の子を産むことです。

歴史を振り返ると、中宮と皇后が同時に存在することは珍しく、

通常はどちらかが宮廷内で最も重要な女性の地位を占めていました。

皇后が限られた属性から選ばれていたことから、

このような2つの身分が成立したのですね。

興味深いものですね。

とはいえ、どちらにおいても

このような地位に就けるのは、高貴な血筋を持つ女性に限られ、

彼女たちの存在は宮廷の政治や文化に大きな影響を与えていたのです。

まさに、中宮と皇后の存在は、

平安時代の宮廷における女性の力と影響力の象徴だったのですね。

中宮と皇后の物語は、遥か昔の平安時代から現代に至るまで、私たちの心に深く響きます。

源氏物語で有名な紫式部は一条天皇の中宮彰子に仕えますが、

当時の皇后が藤原定子、清少納言が仕えた女性です。

同じ天皇に二人の妃がいたことで

この時代は問題もあったようですけどね。

また、その2代前の円融天皇には、

藤原遵子と藤原詮子という二人の妃がいました。

子を産んだのは、詮子ですが

中宮後に皇后となったのは遵子でした。

この二人の争いもまた、歴史に残るものです。

彼女たちが経験した愛、権力の争い、家族との絆は、

今日私たちが直面する問題と共通する普遍的なテーマを持っています。

女御とは?

女御たちは、

平安時代の宮廷で独自の役割を果たしていました。

中宮や皇后とは異なり、女御は天皇の側室の一人として、

宮廷の階層において特別な位置を占めていたのです。

彼女たちの主な任務もまた、天皇の子を産むことでした。

その子が将来的に皇位を継ぐ可能性を秘めているため、

女御の存在も非常に重要でした。

女御は高貴な家柄から選ばれ、天皇の寵愛を受けることで

彼女たちの運命は大きく変わることになります。

もしも、女御が生んだ子が皇位を継ぐことになれば、

その女御の社会的地位は劇的に向上したのです。

女御は、中宮とは異なり、

通常は政治的な影響力は限られていましたが、

宮廷内の権力争いにおいて重要な役割を果たすこともありました。

女御の存在は、平安時代の宮廷社会における女性の地位の多様性と複雑さを示しています。

彼女たちは、宮廷内の政治や文化にも独自の影響を与え、

その動きを形作る重要な要素でした。

先にあげた、藤原詮子は

皇子を産んだものの地位は女御のままでした。

このことが、

詮子のプライドを傷つけたとも言われています。

女御たちの物語は、平安時代の宮廷のドラマの中で鮮やかな色彩を添え、

彼女たちが経験した愛や野望、時には悲劇は、千年以上の時を超え、私たち現代人の心にも深く響きますね。

更衣とは?

平安時代の宮廷の華やぐ世界において、

更衣たちも、皇后や中宮、女御とは異なりながらも、

重要な役割を果たしていました。

彼女たちは宮廷の階層の中で比較的控えめな地位にいたものの、

その存在は宮廷生活において欠かせない存在でした。

更衣は天皇の側室として、天皇の日々の生活を支える縁の下の力持ちのような役割だったんです。

彼女たちの手によって、天皇の衣服は丁寧に手入れされ、

食事も細やかな心配りをもって準備されていたのです。

更衣の中には、天皇から特別な寵愛を受ける者もいました。

そうなると彼女たちの世界は一変します。

更衣が天皇の子を産むと、

その子が将来的に皇位を継ぐ可能性があるため、

その母親である更衣の社会的地位も大きく向上することがありました。

これは、更衣が宮廷内で

単なる側室以上の重要な役割を果たしていたことを示しています。

宮廷内の日常生活を支えるだけでなかったのですね。

源氏物語の有名な冒頭文では、

「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。 」

源氏物語より

と書かれておりますね。

これは身分はそれほど高くないものの、ある女性(桐壺の更衣)が特にご寵愛を受けていた、

ということを書き表しています。

女御も更衣もたくさんいる中で、、という文章に、

いかに、帝の周りには女性が多くいたのか、、ということがうかがえますね。

また、この後の文では、

この桐壺の更衣が周囲から妬まれて、

病がちになったと続きます。

いくらご寵愛を受けたからといっても、

楽に出世、というわけではなさそうです。

身分や格については

本当に厳しくチェックされている時代だったんですね。

いかがでしたがか?

平安時代の天皇の后、

皇后、中宮、女御、更衣について

その序列や主な役割について解説してきました。

この違いを知っておくと、「光る君へ」の

宮中での女性たちの争いや陰口の理由がわかりますね。

読んでくださり、ありがとうございました。

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